隠居たるもの、叱られた甘美な記憶が蘇る。2月に入って、強い北風に身をすぼめるいかにも冬という日が続いていたが、用事を済ませていつものように木場公園に出向いた休日である昨日のこと、陽に照らされ風もやんだ遅い午後には上着をはだけたくなるような暖かな陽気となる。こうなると度重ねた冬らしくない冬への呪詛も忘れ、すぐそこに構えている新しい季節を待ちわびるような軽やかな心持ちになるから不思議なものだ。やはり北風より太陽なのだ。そして、うつむくことなく背筋が伸びていたからなのだろうか。帰り道、東京都現代美術館を過ぎた交差点で、空き家となって久しい木造モルタル造りの家屋にしばらくぶりに目がとまった。

涼しげな水盆

15年くらい前のこれから夏になるという頃合いだったろうか。庵の小さなベランダに慎ましくウッドデッキを張ったあの年だったかもしれない。仕事を変え今のところに居を構えて数年経ち、いろいろなすったもんだも落ち着いて、いささかゆとりらしきものを勘違いにも感じるようになったそんなあたりのことだったと記憶する。フラッと入った店で涼しげな水色の水盆を見つけた。「ウッドデッキに映えて乙なんじゃないかね?これから暑くなるし、水草を育てて金魚なんか放してさ、涼やかになろうというものじゃないか。」つれあいもいたく首肯し、「そういえば、東京都現代美術館の向かいで脇道に入ったすぐのところに金魚屋さんがあったはずだ。」と焚きつける。直径50センチ、深さ20センチの水盆はこうして我が庵にやってくることとなった。

そこにはイガグリ坊主でヨレたTシャツの彼がいた

角だけを丸めた長方形の黒いセルロイドのメガネをかけた彼が、金魚の水槽に囲まれてひとり店にいた。店といっても、かつて職人仕事をしていた人が仕事場もしくは道具置き場にしていたのではないかと思しき木造モルタル造りの民家の1階、住居に上がる前の愛想のない少し広いタタキというスペース。ヨレヨレのTシャツにGパン姿の彼は、初めて訪れる私たちを歓迎してくれ、嬉しそうに金魚を求めるに至った経緯を詮索した。金魚が好きでたまらないのだろう。小さな魚に対する愛に溢れていて、それを一人でも多くの人と共有したいという意思をひしひしと感じた。一方で彼はとてもマイペースで、会話の抑揚もスピードも私たちに左右されることも合わせることもなかった。どんな金魚を迎え入れたらいいのか、条件を伝えながら彼の提案を私たちは楽しみに待った。

あなたにぼくの金魚はゆずれないな

予期せぬ答えに面食らう。彼が言うには、「あなたのお住まいはマンションで陽のあたる少し高い階、南向きで陽を遮るものがない。そこにもってきて水盆の深さは20センチ。真夏には熱湯になってしまう。深さがあれば底の方はいくらか冷たいから金魚もしのげるけど、その深さでは逃げ場はなく、水草を育てたって何の効果もない。金魚はすぐに死んでしまう。」確かにその通り、素人の浅はかさよ。「だから、あなたにぼくの金魚はゆずれません。」痛快だった。つれあいは「落語に出てくる与太郎ってああいう人のことだったに違いない。」と店を出てからとても嬉しそうだった。春風亭一之輔は「与太郎は馬鹿ではない。大概の人間がそう思っていても言わないでおくことを、そのまま口にしてしまう愛すべき人間なのだ。」と語った。金魚を愛する彼は、まさしく愛すべき人間だった。

壊されたとば口を見るにつけ

東京都現代美術館の向かいで脇道に入ったすぐのところに、とば口がまるっきり壊されていて中が丸見えのその家屋がある。外から見えるから内壁に「維新!」と大書された政党のポスターが貼ってある。「日本維新の会」ではなく、今はない「維新の党」のポスターだろう。かつて、その界隈には似たような家屋が並んでいて、私たちが手を叩いて喜んだ彼の金魚屋もその一角にあった。ずいぶん前に店はなくなったし、彼がどこに行ったのかもわからない。どこかで金魚と一緒に暮らしていると思いたい。

木場公園から眺めた先週の満月は見事だった。試行錯誤の果てに今は隅に置かれた水盆も、山に登れば新たな役があるやにしれぬ。ああ、もうすぐ隠居の身。ふとしたはずみで想い出す忘れえぬ人がいる。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です