隠居たるもの、花冷えの夜に千鳥足。2024年4月5日の夜遅く、私は小名木川ぞいをフラフラと歩いていた。肩から下げた鞄に折り畳み傘を忍ばせていたが、夜遅くに雨が降り出すと予報された空はどうにかこうにか持ち堪えてくれている。それにしてもずいぶんと酔っ払ったもので、そうなると身体は以心伝心に動いてはくれないから、小さく折り畳まれた傘を広げなくて済んだことは誠に幸運としか言いようがない(カバーとか失くしかねないもの)。どうしてこんなに酔っ払ったのだろう、プラプラしている身分なのだから疲れているはずもない。いたって単純なこと、早稲田の志乃ぶにおけるこの晩の酒席があまりに楽しく、図に乗って樽酒をパカパカ飲んだからである。
千代田線から東西線に乗り換える大手町通路
1月の終わりにも酒を酌み交わし、もはや飲み友だちと言って過言でない母校の教授から「午後4時に」と研究室に呼び出されていた。目的地とする駅は東京メトロ東西線の早稲田、深川の庵から直接に出向くときは「半蔵門線に乗って九段下で東西線に乗り換える」という経路を辿るのだが、昼過ぎに所用があってつれあいと出かけていたこの日は、日比谷から千代田線に乗って大手町で東西線に乗り換えた。意識することもない「日常風景としての乗り換え」は、千代田線のホームから階段を下り東西線への通路を歩き出した途端に様相を変える。なんというか並々ならぬ郷愁のごとき感情が押し寄せ、私は思わず立ち止まった。そう、40年ほど前の何年かの間、私はこの通路を使って、この午後と同じく、日々に早稲田に向かっていたのだった。遅刻しそうで大慌てだったり、はたまた定刻での登校はすでに諦め、(誰も注目していないのに)お門違いの余裕を見せつけたりしながら。
始まったばかりの新年度は入学式と学部オリエンテーションの最中で、まだ授業が始まっていない文学部キャンパスはいたって静かなものだ。研究室では50歳を過ぎたばかりの教授と、新島襄が創設した京都の大学でこの春から准教授になった30代半ばになろうかという後輩が私を待っている。おおむね彼らから質問を受け、私がそれに答える。もちろん私が学者二人に何かを教えられるほどの学識なぞ持ち合わせているはずもない。「見聞」を語っているのである。
大学に入学した1983年4月からこの40年、ブランクらしき空白も途中になく、サークルそして同窓会と、「早稲田の在日コリアン社会」とでも呼ぶべきニッチな界隈と、私は強いつながりを保ってきた。図々しい性分なものだから大先輩と酒席をともにすることも苦にしなかったし、小生意気な後輩を先輩たちも面白がりいろいろなことを教えてくださった。すでに亡くなられた方も多くいらっしゃる。「早稲田の在日コリアン社会」は、マイノリティであるからこそその振幅も大きく、日本社会および東アジア情勢のはざまで変遷をたどってきた。また東アジア情勢が大国が主導する駆け引きの大舞台であることを考えるとき、大袈裟に言えばその変遷は世界情勢すら浮き彫りにする。この間に私が経験したこと、私が聞き知ったこと、彼らは今現在の「座標」をニッチな角度から明確にするため、そんなこんなが聴きたいらしい。つまり初老にさしかかった還暦目前のこの私、時間の融通がきく「研究対象」なのである、笑。
1954年創業の老舗酒場 志乃ぶ
以前に「酒は人の上に人を造らず」という省察でも紹介したこの教授、酒飲みである。「昼の部」だけで終わるはずもない。お祖母さんの93歳の誕生パーティーのために帰京した殊勝な孫娘である准教授の後輩はここで放免し、この晩は都電の早稲田駅近くの路地裏にある、1954年創業の老舗酒場 志乃ぶに繰り出そうと研究室を出た。授業が始まっていない夕方のキャンパスはさらにひっそりとしており、向こうからゆっくりと歩いてくる二人の人影が静けさをより際立てる。近づき目礼をしようとして「え!?ああ!」と驚いた。一人は東アジア古代史を専門とする、昨年3月に退官され今は名誉教授となった先輩ではないか。もう一人は、やはり東アジア古代史の研究者で、韓国からやって来ていた若い学者さんであった。そもそもこの先輩の行きつけが志乃ぶなのである。さらにそこでもうひとり、この先輩と同級生だった70代の先輩と合流することになっている。聞くと韓国から来たお客さんも酒好きだという。結局、みんなひっくるめて5人で飲むことになった。
志乃ぶ:https://tabelog.com/tokyo/A1305/A130504/13006140/
白鶴の樽酒
金曜日の夜、7時になろうかという頃に店は満席となった。5人そろった私たちは小さなテーブルをちんまりと囲んでいる。5時半から飲んでいる私はビールからすでに樽酒に移行している。この店の名物の一つは白鶴の樽酒だ。まさに花冷えという4月初旬にしては肌寒い晩、名物のおでんが沁みる。美味い、楽しい。吉田類の金言「酒は人の上に人を造らず」、それが私たちの流儀である。店を見回してみると、角っこに陣取った私たちの席の真上に吉田類がサインした色紙が飾ってあった。「酒場放浪記」でやってきたのだろうか、しかし色紙の日付を思い出せない、写真も撮らなかった。調子に乗って樽酒をパカパカ飲んで、すっかり酔っ払ってしまったからだ。
巻頭を飾るのはキッチンオトボケ
50歳を過ぎたばかりの教授に早稲田駅まで支えられ、ひと駅だけ乗り越したりしながら、なんとか帰宅した。翌朝に起きてみるとやはり昨晩の酒が残っている。とはいえタバコを吸っていたころに比べれば二日酔いもそれほどにひどくはない。ここまで酔っ払うことは滅多にないのだが、過去の記憶を紐解いてみると、どういうわけか花冷えの日だったことが多い。つい日本酒を飲み過ぎてしまうのだろうか。3月末に母校から届き、そのままにしていた卒業生向けの広報誌の包みを開けた。今号の特集は「油田」、学校周辺の脂っぽい食事処がまとめて記事にされていた。巻頭を飾るのは馬場下町交差点に位置するキッチンオトボケだった。入学したばかりの41年前の今ごろ、ドイツ語Q組の授業が初めてあった日、Hという同級生と連れ立って、「専攻はどうするつもり?」とか話しながらここで昼食をともにしたのだった。私がチョイスしたのはミックスフライ定食だったと記憶している。
ドイツ語Q組の友だちと作るLINEグループに「巻頭を飾るのはキッチンオトボケ!大学に入ってすぐにHと行ったんだ!」と思わず送る。そういえば志乃ぶに向かう道すがら、長年にわたって大学で教える教授が「戻ろうと思える場所があるというのは幸せなことですよ」と言っていたっけ。洗濯を始めながら前の晩の携行品を確認していると、ハンカチ一枚をどこかに置き忘れてきたことが判明する。「恥ずかしいことに酔っ払っちまったなぁ…」とぼやいていると、つれあいが腰に両手を当ててこう突っ込んだ。ああ、もうすぐ隠居の身。「まあ、そんなこともあらぁな」