隠居たるもの、道具をそろえて気持ちを一新する。およそ8年ぶりにカメラを購入した。写真を撮ることが趣味というわけでもないが、2004年あたりからになろうか、とりわけ旅に出たときなどにやたらとシャッターを切るようになった。それでは何故に2004年かというと、その頃から旅という旅を周期的にするようになったから、ということなんだけれども、実のところ要因はもうひとつあって、「デジタルカメラの性能がようやくのこと日常的使用に耐えうるものになった」こちらの方がより私に働きかけた。目にした記憶をどうにか記録しておきたくて、のべつまくなしにシャッターを切る私にはデジタルカメラの方が気軽だったのだ。なにしろプリントの必要がない。
これは「おそらく人生最後のなけなしの大散財」の一環である
2004年から2012年、デジタルカメラの進化はめざましく、いつもどこかを物足りなく感じて何台も購入する羽目になる。とはいえ「写真が趣味」なわけではないから「かさばる」ことを理由に一眼レフに手を出すことはなかった。そこに「ミラーレス一眼レフ」なるジャンルが登場する。すごく乱暴に解説すると、「デジカメだからこそ、一眼レフに必須のミラーとミラーボックスを経由させずに被写体の像を液晶画面に直接表示させることができる。その結果、高画質を維持しつつ、それらをなくすことで小型化と同時に低価格化も可能ならしめた」ということなのである。私にはもってこいだったから、2012年にSONYのα NEX-7というやつを買ってみた。以来、その性能に惚れ込み、これが掛け値なしの愛機となる。しかし、機械であるフィルムカメラと違ってデジカメは電子機器だし、あちこち出かけて酷使もしてきたし、ホールド部のラバーが本体から剥がれがちだしレスポンスもどうにも頼りにならなくなったし等々、このところさすがにくたびれていることを隠せない。新機種を購入し、私と同様にもうすぐ隠居させよう。だから「おそらく人生最後のなけなしの大散財」の一環に滑り込ませることにした。これらの原資は、そう退職金である。
シャッターチャンスを逃さないために
迷うことなく、後継機種のSONY α6400を後釜にすることにした。ビックカメラ有楽町店に足を運び、付属物の差異による価格の違いなどをチェックする。新型コロナ禍で工場が止まってしまったことから、今は潤沢なサプライが当たり前のことではない。「パワーズームレンズキットのブラックがいいや」などと在庫を確認してもらい、売り場をウロウロして待つ。そこで見つけてしまったのだ…。手の平より小さいCanon Power Shot G9X。この日は下見だけの予定だったので、α6400の在庫があることを確認してそそくさと店を去ったのだが、頭の中は突然に現れたPower Shot G9Xのことでいっぱいだ。「近頃のスマホはカメラの性能がとてもいい、もうデジカメはいらない」とよく言われるが果たしてそうだろうか?私も日常的にiPhoneを使っているものの、咄嗟の場合に操作が不安定で起動に著しく手間がかかってシャッターチャンスを逃したり、マスクをしていて「顔認証」してくれずやっぱり手間がかかったり、などなど忌々しい思いを幾度となくしている。それに私は「ブロガー」である、それなりにふさわしい装備(つまり常に持ち歩けるコンパクトカメラ)というものがそれはそれであるだろう。そこに加えて、これは「おそらく人生最後のなけなしの大散財」の一環なのである、と様々な言い訳がかけめぐる。結局、ふたつとも買ってしまった。これらの原資はあくまでも退職金である。
小さいカメラに何かしら自由を感じた
両機ともに素晴らしい。まず当たり前に絵がキレイだ。解像度が高く撮られた写真に立体感がある。やはりスマホと比べてはいけないし、それに今どきだからスマホから操作だってできる。ピントを合わすこともシャッターを押すこともできるのだ。カメラにメモリーされた写真をスマホに取り込むことだって簡単にできる。8年でここまで進化していたのかとビックリした。格段に操作性が良くなったα6400の素晴らしさは想定できていたからこそ、小さなCanon Power Shot G9Xに寄せる満足感はより大きい。考えてみれば、私がコンパクトデジカメを持たなかったことには理由がある。先日に退職した勤め先に、仕事中にデジカメを所持することを禁じられていたからだ。個人情報保護法の対象業者である勤め先によると、「デジカメに付属するメモリーカードが個人情報を持ち出すことが可能な大量記憶媒体にあたる。だからデジカメもろとも持ち込むことはまかりならん」ということなんだそうだ。なんとも無粋な話だ。今、私は小回りのきくこの小さな新しい愛機を持って散歩に出る。ああ、もうすぐ隠居の身。新しいカメラに何かしら自由を感じているんだ。