隠居たるもの、凝り固まった身体を解き放つ。よく晴れて暖かった昨日(2021年2月9日)の日曜日、積もる話が積もりきった近所の友人と誘いあって、ともに小名木川ウォーキングに出かけた。春のような陽光をたっぷりと浴びるため、11時30分に我が庵から降りた遊歩道のところで待ち合わせ、ひたすら東に進む。おのおのが背負ったおにぎりは、折り返し点となる荒川で食す。気温を見越して薄着で出発するも、風が少しでも吹くと歩き始めはまだまだ肌寒い。そんな私たちを尻目に、欄干にたたずむゆりかもめは、動じることなくひたすら気持ちよさそうだ。
「自分が空でできることは何で、できないことは何かを知りたいのだ」
どこぞの飲み屋で顔を合わせて愚痴を含めてあれやこれや、このところはそんなことがどうにもままならない。すると「コリ」みたいなものが溜まったりする。溜まりきった「コリ」が閉じこもったまま交錯すると、こんがらがった挙句に抜き差しならなくなることもある。大っぴらに会食を楽しめるのはまだまだ先のことだし、「お互い『肩』でも揉み合おうじゃないの」と、よく晴れた日曜日のピクニックに誘い合ったわけだ。歩き出して早々、ひとり欄干にたたずむゆりかもめを目にした時、私は「かもめのジョナサン」を思い浮かべた。1970年代前半の大ベストセラー「かもめのジョナサン」、主人公の名はジョナサン・リヴィングストンという。中学生の時に新潮文庫で読んだ記憶がある。生きることの意味やより高い目的を発見しようと日々に飛行訓練を続けるジョナサンに対し、彼が所属する群れは「かもめはただ餌を食べ可能な限り長生きするために生まれてきたのだ」と彼を非難し追放する。ジョナサンは、追放されて一羽になっても速く飛ぶための訓練をやめなかった。すると二羽の光り輝くカモメが彼方より現れ、より高い世界へと彼を導いて行く、そんなストーリーだったっけ。1970年台後半の東映人気シリーズ「トラック野郎」において、菅原文太が演じる一番星の相棒 愛川欽也が演じたのは「やもめのジョナサン」、今から考えるとずいぶんと雑なもじりなのだが、しかしどうして、それがどうにも懐かしい。
だからといって私たちは歩行訓練をしているわけではない
荒川に面した大島小松川公園で、楽しそうに「だるまさんがころんだ」に興じる母娘を眺めながらおにぎりを食べる。しばらく体を動かした後に外でほおばるおにぎりはどうしてこんなに美味しいんだろうか。それも海苔がパリッとしているコンビニの三角形のやつではなく、ご飯にしっとり海苔がはりついている自家製の丸いやつに限る。少し離れたところで私たちと同じように昼食をとっている中国語を話す女性2人は、これでもかとソーシャルディスタンスを確保した上で、微笑ましくも元気な声をあげている。私たちはスピリチュアルな世界に生きる孤高のジョナサンとは違う。そもそも積もる話を交わしたくて時間のかかるピクニックを選んだわけだから、歩きながらマスク越しのそれぞれの声を聞く。オオバンやムクドリを見つけてしばし立ち止まったりもするが、日光を浴びてビタミンDを体内で作りつつ、往復9.6Km、私たちは対話した。
一瞬たりとも「コリ」から解放されるために
かれこれ5、6年になるだろうか、肩甲骨下あたりがしつこく固くて、いつも身体が縮こまっていた。ここ最近、思いついて週に4回ほど30分以上かけてみっちりストレッチをしているのだが、拘束から身体が解放され始めたような爽快感を味わっている。「コリ」が溜まると人間てえのはどうしても縮こまるもんだ。「会食できない」苦肉の策で、歩くことと話を交わすことを一緒くたにしてみたら、どうやら楽しい心持ちにもなるし、なんだか具合がいい。哲学的に語らっているわけでもないのに、自ずと「できることは何で、できないことは何か」が知れてきたりして…。酒に頼らないから身体に負担もかからない。それどころか健康が増進する。なによりも話したことを「憶えている」。白馬でトレッキングをしながらでも楽しかろう。どちらにしたって、こちとらは悠々と空を飛べる「かもめのジョナサン」とは違う。ああ、もうすぐ隠居の身。我らは連れ立って地べたをゆっくり二足歩行する。