隠居たるもの、人智の裾野を広げてみたく思うもの。私は本を読むことが苦にならず、むしろ好んだからこそ大学は文学部に進んだ。しかし、日々の勤労と享楽にからめとられ、この30年の間、いつしか「読書」は隅の隅に追いやられる。そして、契機は色々とあるが、日頃の「成り立ち」がそろそろ変わり始めるだろうと予測した50歳のあたりから、また書物を手にとるようになり、すっかり繙く「習慣」が戻ってくる。帰巣本能のようなものなのかもしれない。
「わたしを離さないで」
今年の春、カズオ・イシグロの小説を読了した。ここ数年に読んだものの中で最良、とても素晴らしい小説だったので、つれあいにも読んでみたらと勧めていた。いつから読み始めたのか、昨日「あっという間に読み終えた」と満足げにハヤカワepi文庫を返してきた。2017年にノーベル文学賞を受賞した著者の、2005年発表の小説である。
集中力の問題もあろうが、学生のころに比べると、それからの経験の蓄積が邪魔をしていることもあり、簡単には小説の世界に入り込めない。つたなく「嘘くさい」虚構に、素直につきあえない時があるからだ。なのに、SFといってもいいくらい「虚構」でしかないこの小説に、すっかり耽溺した。翻訳も含め、高度な技量に感嘆する。抑制の効いた美しい筆致で淡々と「物語」が謎めいて積み上げられ、全体像があらわになって「虚構」だと判然とするころには、衝撃のあまりにその「世界」にすっかり浸かっていた。
限りない悲しみ
今作を読む間、ずっと私の頭の中で鳴っていたBGMは英国のロックバンド Radiohead。カズオ イシグロが今作を書いていただろう2003年に、Radioheadは「Hail to the Thief」を発表している。両者とも、頭上に垂れ込めた暗雲を思うままに振り払うこともできず、だからといってそのまま奪われて押しつぶされそうな「生」をなかったことにもできず持て余し、そこでもがく人の不安や恐怖や絶望をとてつもなく美しく提示する。世界観が通底しているのだ。悲しみに限りはない。
カズオ イシグロ は 石黒 一雄ではない
彼の出世作「日の名残り」も、ハヤカワepi文庫で17年くらい前にかろうじて読んでいた。アンソニー・ホプキンスが主演した映画もよく憶えてる。戻ることのない、失われつつある英国を、淡々と美しく描いた小説だった。映画化された「わたしを離さないで」もずいぶん前に観ている。キーラ・ナイトレイとかキャリー・マリガンとか、あらためて原作を読むと配役もぴったりだ。綾瀬はるか主演でTBSでドラマ化していたそうだが、それはよく知らない。そして、それらが素晴らしかったとしても、映像では伝わらない力がこの小説には確かにある。彼は、とってもそれらしく素晴らしい英国の小説家だ。
“ Hail to the Thief=泥棒万歳 ”
Radioheadのこのアルバムタイトルは、ジョージ・W・ブッシュを揶揄するアメリカンスラングを、「泥棒」どもがイラク戦争に突き進むその最中に、そのままつけたものだそうだ。今だってね…。彼らは「俺様・今この目先・金」を軸に、追随するおべっか使いとともに世界を「掠奪」し続けている。だからRadioheadは、より低く垂れ込めた暗雲の下で、これからも悲しく美しい曲を作り奏でることだろう。それこそが「希望」であるからだ。
ああ、もうすぐ隠居の身。ちょっと照れるけど、我らの合言葉はこっちだ。「Everyone・展望しうるかぎりの未来・Soul」、そうだろ?でも、やっぱりちょっと恥ずかしいか…。