隠居たるもの、幼少のみぎりに電撃が走った味覚を忘れない。まだ小学校に入学する前だったと記憶しているから、6歳くらいのことだったろうか。49年前の荒川区町屋、年齢も様々な近所の子供同士が、当たり前のように自分たちだけで遊んでいたころの話だ。一団の中に同い年の友だちがいて、彼は小さな中華料理店の息子だった。ひとしきり暴れたあと、開店前のお店に立ち寄って水を飲ませてもらっていた。「いつも遊んでくれてありがとな。チャーハン食ってけ。」彼のお父さんが中華鍋を火にかけた。

「え、チャーハン?」

私の父は、借家の1階で家内制手工業のような小さな工場を営んでいた。一日は「自宅」で完結し、そうそう休まない時代だったから、家族で連れだって「外食する」なんてことはまずなく、母が忙しい時に出前を取るばかりで、その際の私の注文は決まって「ラーメン」だった。工場で働く若い衆に「ラーメンが好きだなぁ」と囃されても、「外の食の世界」に接したことがない未就学児は、それ以外のメニューも知らない。不満に思うこともなく、記憶していないから大して美味しくもなかったのだろうラーメンを「文句ある?」とすすっていた。人手がなく出前をしなかった、友だちのお父さんの小さなお店のカウンターで、そんな小僧が料理が出るのを待っている。6歳にして単独で外食?多分、噂に聞くチャーハンとやらを口にするのも生まれて初めてのことだった。

なんじゃ、こりゃ?

語彙に乏しい1年保育の幼稚園児に形容できるわけもない。目を丸くしていると、お父さんが手を取って「レンゲにすくって、そこにいくらかスープを浸して、一緒に食べるともっと美味しいぞ」とレクチャーしてくれる。カオスである。しょっぱいだけではない、甘いわけでもない、硬いというほどではない、だけど柔らかいわけではない、いろいろからみあって「美味しい」…。アイロンパーマをかけた親父さんの啓示、私の「食」が一変した歴史的瞬間である。

翌年、小学1年生となった夏休み、私たち一家は工場ごと墨田に引っ越した。12年くらい前だろうか、仕事で近くに行くことがあったから懐かしく歩いてみた。著しく狭く感じる路地に、友だちのお父さんのお店はもうなかった。

私が愛した大勝軒

日本橋で親しみ続けられた町の中華料理店 大勝軒が、1933年の創業以来85年の歴史に幕を閉じ、惜しまれて4月26日に閉店した。地区の開発と建物の老朽化のはざまで決断されたようだ。いまだ隠居にたどり着いていない我が身、勤務先がすぐそばのため足繁く通っていた。ラーメンもスッキリして美味しいのだが、何よりもチャーハンが絶品だった。その他にも、出身中高近く神谷町の「萬寿園」、墨田で暮らしていたころに通った東武線鐘ヶ淵駅前の「千石」、そのチャーハンゆえに愛した店がいくつもあったが、今はどれもない。私のテリトリーで残ってるのは、残念ながら神保町の「三幸園」くらいか…。

チャーハンについて考える

BS –TBSが、「吉田類の酒場放浪紀」の二番煎じを狙って「町中華で飲ろうぜ」という番組を開始した。もちろん、「流行り」の町中華のどこもが美味しいわけではないし、チャーハンに限っても、塩辛いだけだったり、パラパラじゃなかったり、がっかりすることが多い。単純な料理だからこそ、微妙な加減で味が一変するのだろう。だからといって、高級店で食べるチャーハンは美味しいけれど味気がない。

日々の生活圏に存する店で、振ってる中華鍋の音が聞こえてきて、暑苦しい上昇志向にめまいすることもなく、不出来な時もあるにはあってなんだか適当なんだけど、たいがいは美味しい、だからこそ、はみ出るチャーハンにカタルシスを感じるのではないだろうか。ああ、新しい店を物色しないと…。もうすぐ隠居の身。結局は、記憶として残るかどうかだ。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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