隠居たるもの、浮世の変転に目を留める。月に一度、私は京成電鉄に揺られて必ずや荒川を渡る。ご存知だろうか、車寅次郎が妹のさくらに見送られて乗り込むあの電車。上野や東京スカイツリーのお膝元となった押上から成田まで、東東京と千葉とをつなぐ鉄道である。葛飾区の青砥駅近くで家族で美容院を営む同級生のヤスに髪を切ってもらうため、少なくとも月に一度は京成電鉄の乗客となる。

行李を背負ったおばさんたち

子供の頃、京成電鉄沿線の荒川区町屋というところで幾年か過ごした。小学校に上がってからは東武線沿線である墨田区に転宅し、18年ほど前までそこに暮らした。東武線は浅草を起点とし埼玉を抜けて日光に至る私鉄である。とはいえ、墨田区内で東武線と京成電鉄は並行して走るような位置どりだったから、この両線がまず最初に乗らなければならない私の生活路線だった。この他になんとなく馴染んでいるとしたら、茨城からやはり東東京の上野にやって来るJR常磐線あたりだ。私が子供だった頃、40年くらい前のことになろうか、これらの路線には頻繁に見られる共通点があった。野菜を入れた行李を背負って、手ぬぐいを姉さんかぶりにしてモンペをはいた、そういうおばさんたちが東京で商いをするために乗車していたのだ。

サキイカくわえたワンカップのおじさんたち

夕方の下り電車には、「なとりの珍味」をくわえながらワンカップのお酒をあおる仕事帰りのおじさんたちもいた。今から思うと、なんか「生きている」感が生々しくみなぎっていた。馴染みがないから知らないだけで、他の路線もそうだったのかもしれない。だけれども、京浜急行はそうだったかもと想像できるが、東急電鉄でそんなことはまずなかっただろう。行李を背負ったおばさんを目にすることはさすがにもうないが、ワンカップをストロングゼロに持ち替えたおじさんはたまに見かける。おじさんといっても、その人たちがもう私より年下であることも多いのだが…。

ズラッと並んだスーツケース

今日の京成電鉄の日常的光景はこうだ。普通車両の座席に沿ってぎっしりズラッと並んだスーツケース。成田空港に降り立ち飛行機からはき出された乗客たちが、東京に向かう快速電車に一緒に乗り合わせるのだろう。ヤスの美容院で髪を切り、押上に向かう上り電車に飛び乗って、それぞれに大きなスーツケースを抱えて遠方よりいらした方々が座席を占拠する光景にハッとすることもある。空港開設時より成田とのアクセスを売りにしてきた京成電鉄であるが、少し前まではこんなことはなかった。さかのぼって考えてみれば、おばさんたちが作物を行李に背負って東京に行商に来ていた頃は、農家の人たちによる三里塚が闘われている最中で、成田空港はまだ開港していないのだ。

オレが司令塔だったらなぁ

自国開催のサッカーW杯を前にした2000年あたりの初夏のことだったと記憶しているから、キリン杯か何か日本代表の試合があって、トルシエジャパンは芳しくなかったんだろう。浅草から東武線に乗ると、やはりサキイカくわえてビールを飲んでいたおじさんが、その試合の話題になってお連れさんにこう言った。「ああ、オレが司令塔だったらなぁ…」。吹き出しそうになるのを必死にこらえた。

そういえば、「募ったが、募集はしていない」という珍妙な日本語を平然と口にするあの方も、自らを司令塔になぞらえることを好む。その度に「ごめんこうむりたい」と口をあんぐりさせてしまう。フェアプレーでゲームを展開するつもりが彼には最初からないからだ。どちらかにしろと迫られたら、少なくとも隠し事ができなさそうな、サキイカのおじさんを私は司令塔に選ぶ。ああ、もうすぐ隠居の身。そう、「オレが司令塔だったらなぁ…」

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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