隠居たるもの、直角の手首ですべてを悟る。2025年1月30日の夜、馴染みの一成で夕食を終え、タクシーが来るのを気長に待っていた。数社ある会社に繰り返し電話し、ようやくのことつながったのは白馬観光タクシー。インバウンド客に溢れかえる白馬の冬の夜、そもそも台数が少ないタクシーを確保するのは容易でない。「お待たせしました」とやって来たのはKさんだ。相変わらずボッサボサの髪、「本業は農業なんで」といわんばかりのいかにもなヤッケ姿、我が道を行く朴訥にして独特なトーク。そしてこの冬の大雪について車中で世間話しているうち、3人の誕生日がわずか9ヶ月間のうちに収まっていることが発覚する。いささか酒が入っていて「なんだ、KさんじゃなくてKくんじゃない!」などと調子に乗るつれあいを尻目に、「そのロータリーを左折で」と私が帰り道を案内したときのこと。運転席で彼は、左手の手のひらをまっすぐ開いて左方向に直角に傾け「左折ですね」と復唱し、こうつけ加えた。「間違いがないように、金井克子にあやかっているんです」私たち3人はそろって腹を抱え大爆笑した。
「昔の名前で出ています」
ただでさえオーストラリアからのお客さんで溢れかえっているところに旧正月の大型連休も始まり、白馬はこれまでに経験したことがないほどのインバウンド客を迎えている。岩岳スノーフィールドに足を運んだのはそんな1月28日のこと、スキー場には様々な言語が飛び交う。この日の私は少し気分を変えようと使い古したウェアに袖を通していた。なぜか往年のヒット曲がすっと頭に思い浮かぶ。小林旭の「昔の名前で出ています」だ。ならば「きょほとにいるときゃ しのぶぅとよばぁれたのぉ」と声を張ったりしたのかというと、ゲレンデの斜面を颯爽と滑り出すなり私の口をついて出たのは、「十五、十六、十七と 私の人生暗かった」、藤圭子の「夢は夜ひらく」だった。インバウンドさんに包囲され、なぜか初老の身には昭和歌謡が流れる。
馴染みの Neo"和"食堂 一成 で鴨しゃぶを食す
この冬2度目の一成、私たちのお目当ては鴨しゃぶだ。今季から店のシステムが一新されている。FBページにアクセスし、そこに貼られたリンクに飛び、おおむね二週間ほど先まで埋まっているカレンダーを睨みつつ、期日およびコースのみとなったメニューを選び予約する。早めに出かけまずは斜向かいの郷の湯でひとっ風呂あびた後、ちくわの磯辺揚げなぞをメニューから選んで生ビールを飲み、ジョッキが空いて日本酒に移行するのと同時にさっそく鴨しゃぶを注文する、これがこれまでの当日の動き。それがこの冬こう変わった。まずは同じように郷の湯につかり、席に着くなり生ビールを注文し、先づけ、刺身、天ぷら、鴨しゃぶ、料理がコースに沿って順次出てくるのにまかせ、あとは酒の注文だけに頭を捻る。料理はどれも大変に美味しく、あまりの混雑ぶりに外食に滅多に出なくなった白馬の冬、「特別な夜」感が醸し出されてかえっていい。そもそも夫婦二人で切り盛りする店が繁忙期にアラカルトで注文を受けるというのも困難至極、コースに限定したことで実のところ顧客サービスはわかりやすく向上した。
店内の大半を占めるインバウンドさんたちが食すのは往々にしてすき焼きコースだ。そして、ここを訪れる人たちはだいたい自国を出発する前に予約を済ませているんだそうだ。そのときの情報からどこの国の人たちなのかあらかじめわかっていて、それぞれの「食卓における文化」の違いが感じ取れて勉強になる、若い女将からそんなエピソードを聞いた。その間にも「明日の予約はできるか?」と店の戸を開ける「やや無計画な」インバウンドさんたちがひっきりなし、そのたび「申し訳ない」と丁寧に対応する彼女はとても忙しい。さすがに「Today is full(今日は予約でいっぱい)」と店頭に張り紙しているから「これから入れないか?」と無理を通そうとする者はいないものの、今般の白馬でまともな飲食店を近々に予約するのは至難の業。それにしても、昨冬に増して滞りなく英語で接客する一成の夫婦にほとほと感心する。
ゴーロク豪雪
「どうも今年はとんでもなく人が押し寄せるだろうに、飲食店はさして増えてもいないし、一体全体どうするんだろう」、老婆心ながらそう危惧していた。しかし蛇の道はヘビ、雪が積もり出したらどこからともなくフードトラックがたくさん集まってきて、あちこちの空き地をぐるりと囲み、露天の即席フードコートが二つ三つとできあがった。タクシーがそんな広場の横を通り過ぎるころ、私たちはKさんに「この冬はとんでもない雪だけど、かつてはどうだったんですか?」と尋ねていた。「昔はこれが普通でした。これより降ったことだって何度かあります。長野オリンピックの年もすごく降ったけど、ゴーロク豪雪なんかはこんなもんじゃなかった。そんときはもう高校生だったんでよく憶えてますよ。」1980年(昭和55年)12月から1981年(昭和56年)3月にかけて日本海側を襲い合計133人の死者を出した記録的な豪雪を、昭和56年からとり五六豪雪というのだそうだ。しかしここで「え?ちょっと待って」、間髪入れずに問いただす。「私たち夫婦もそのころ高校生だったよ、Kさん、何年生まれ?」
タクシードライバーは「金井克子のように」開いた手のひらを直角に傾ける
8月生まれのつれあいと翌年の1月生まれであるKさんが同学年、さらに4ヶ月後の5月に生まれた私がKさんとは同い年でありながら一学年下、ということが判明した。その間にも運転席の無線から「え?呼ばれたところに行ってみたらお客さんいないの?う〜ん、もう少し待ってみて」なんて悲壮なやりとりが聞こえてくる。待ちきれなくなったお客さんが業を煮やして移動してしまうことが多々あるのだそうだ。道を歩くオージーの一団を追い越し追い越しタクシーは進む。もう少しでロータリー、私はKさんに「左折で」と案内する。「同年代だしわかるよね?」とばかり、Kさんが挑発的かつ確信的に「金井克子にあやかって」とギャグを決めたのはそのときだった。私は返す。「明日ゲレンデを滑るとき、『パッパッパヤッパー』ってコーラスしちゃうじゃない!」3人の笑い声はより大きくなった。
「他人の関係」
金井克子の「他人の関係」がヒットしたのは1973年の6月から7月、3人がそろって9歳のときだ。この曲の歌詞に漂う官能性について、小学校中学年の子どもだった私たちには理解のしようも皆目なかったが、開いた手のひらを直角に傾け左右双方にポーズを決める振りつけはたいそうショッキングだった。娯楽といえばお茶の間に鎮座する一家に一台だけのテレビを家族そろって観ていた時代のことだ。歌番組の翌日ともなるとませた女子たちが教室でわけもわからず金井克子を真似ていた。そんなことを思い出していると、Kさんが「お孫さん、います?うん、男の子の」と聞いてくる。実は彼、有名なオオクワガタのブリーダーなのだ。「孫ではないけど確かにそんな年頃の男の子が身近にいる」と答えたころに散種荘に着いた。Kさんが「そうだ、おそろしいものお見せしましょう」とスマホを操作して写真を探している。私は笑ってつっこむ。「越冬するクワガタに適した室温を常時保つためにかかった電気代の請求書でしょ?6万を超えてるんだよね?」Kさんは悔しそうだ。「え⁉︎前に見せたっけ?くそう…。この雪だし、7万を超えたらまた見せますよ!」、同い年の友だちというのは何故か意味もなく張り合う。私たちはそろって涙まで流して大爆笑した。
インバウンドさんに取り囲まれた日々に訪れた一服の清涼剤。台数が少ない白馬では同じタクシードライバーに頻繁にあたる。山の中ということもあって会社もうるさく言わないのか、個性的で面白い人が多い。次にKさんの車に乗ったらこうお願いしよう。「夏に姪孫たちを連れてオオクワガタを育てている様子を見学させてもらえまいか」。もはや友だちと言って差し支えないし、彼はきっとうなづいてくれるに違いない。ああ、もうすぐ隠居の身。右手の手のひらをまっすぐ開いて直角に傾けながら。