隠居たるもの、再来年の予定を手帳に記す。といっても、それはなんというか比喩であって、私なぞ来年の手帳すらまだ用意していない。勤めを辞してからというもの、一日のうちに2つも3つも用事が入ることなど滅多になく、もっぱら予定の管理はPC・iPad・iPhoneが共有するデジタルカレンダーで事足りる。では何故に今も手帳を買い求めるのかというと、読了した本や観終えた映画のタイトル、および日々にどんな運動をどれだけしたか、そんなことを書き留める備忘録として使っているからだ。2023年12月5日、17名の同級生が集って少し気の早い忘年会を開催した。そこで交わされた再来年の約束を書き留められる手帳を持つ者はいなかった。しかし忘れる者もいないだろう。同い年である私たちは、再来年の3月末に「我々同級生のための、同級生による、同級生の『合同還暦祝い』(仮)」を開催しよう、そう約束したのである。
「下町の太陽」ってえのは
会場である大門の中華料理屋に着くなり、先に席を占めていた同級生から「変わらないねえ!」と声をかけられる。いささか照れ臭くはあるのだが、考えてみればさもありなん。他の同級生はみな仕事帰り、もしくは自ら経営する仕事場から直接に来ていて、相応に折目正しいカッコウをしている。そこからしたらプラプラしている私はやはりどこかくだけたいでたち、それが「社会人以前」の日々を共有していた同級生に「変わらない」と映るのに違いない。しかし、君たちだっておいおいそういう暮らしになるんだ。例えばこの日の昼だって「夜が宴会だからランチは軽めにしたい」との私の要望に合わせ、私たち夫婦は近所のさっぱりした醤油ラーメンを食べに行くことにしていた。
私は我が庵の書斎から、つれあいは仕事場から、示し合わせた時刻を目指してラーメン屋に足を運ぶ。しかし、その途上で江東区長選挙公職選挙法違反容疑でおなじみ、柿沢未途のポスターを何枚も何枚も見かけるもんだからその都度ムカムカしてしまい「なにが『下町の太陽』だっ!『下町の太陽』ってえのは倍賞千恵子と相場が決まってるんだ、この恥知らずが。目障りだからさっさとポスターを剥がしやがれ」などと毒づいていたら遅刻してしまった。前回の選挙期間中だったか、節操のない彼が我慢ならず「この恥知らず!」と至近距離で面罵したことすらある。私は倍賞千恵子が「下町の太陽」だったころの生まれだ。それで余計に腹が立つのかもしれない。だからといって「ああ、あの通りは柿沢未途のポスターがずらっと並んでるもんね、仕方ないよ」とつれあいが許してくれるわけはなく、ペナルティとしてHEADROCK CLIMBING GYMにしつらえられた顔抜きパネルで写真を撮ることを強要されたのであった。
薄寒い一日の終わりに
痛みが和らいできたふくらはぎのリハビリを兼ねて午後に木場公園でウォーキングをしたのだが(無事に2周7kmをこなす)、「こりゃあ夜になったら冷えるな」と実感する陽が射さない薄寒い一日である。夕刻に会議が入ってしまった姪から「保育園のお迎えをお願い🙏」とSOSが入ったので出がけにメロン坊やのお迎えに行く。駅にさしかかったところで後はつれあいに任せ、「大叔父は大門で友だちと約束があるんだ。また近いうちにな」と名残惜しげな顔をする4歳の姪孫と別れる。彼は夕食時に「おおおじは大門にいったんだよ。大江戸線にのったのかな」と口にしたそうだ。末恐ろしい天才である。そうこうしてようやく、レインボーストライプのニットキャップを被り水玉のマフラー巻いて、58歳から59歳の同級生が待つ大門の中華料理屋に出向いたというわけだ。
取り交わされた再来年の約束
日取りを12月早々に設定したのは、この週末から2週間ほどが仕事等の忘年会のピークで、それ以後はそれこそ年末でもろもろ忙しかろうとの配慮からだ。同じように考える方々も多いのか、会場とした馴染みの中華料理店は小グループで満席だった。私たちは1964年の4月から1965年の3月までに生まれ(法的には1965年4月1日生まれも同学年ではある)、今現在すでに59歳もしくは近いうちに59歳になる。すでに鬼籍に入った同級生も数人いれば、ここ数年で奥さんに先立たれ悲しい思いをした者もいる。酒を飲みながら話していると状況がそれほど深刻でないとはいえ「うん、ちょっとガンになっちゃって」なんてしれっとしているやつだっている。46年前に同じ男子校に入学した私たちは、あと4ヶ月もしたら順次に還暦を迎える。その同級生みながほぼ還暦となり、まだ61歳になる者が出ない再来年の3月末に、学年全体に呼びかけて「我々同級生のための、同級生による、同級生の『合同還暦祝い』(仮)」をやろうじゃないか、卒業30周年といって声をかけた10年前は100人を超える同級生が集まったんだ、全員集合だ!お互いがお互いを盛大に祝い合おうじゃないか、私たちは紹興酒を飲みながらそう約束したのだった。
Starting Over
10年前には想像もできなかったことだけど、「お前の会社、定年はどうなってるんだ?」なんて具体的に面つき合わせて話している。道楽の延長で新たな仕事を引き受けた者もいれば、あと数年とはいえ楽しく仕事をするためにと転職した者もいる(この歳で思うように転職できることに感心する)。どちらにしろ、そういうことにあれこれ直面する歳になり、そのうちみんなプラプラするようになるのだ。そして15年もしてみろ。今はあんなに可愛い孫同然のメロン坊やだって、まだまだ小僧であるにもかかわらず、さも何もかもがわかったような顔して生意気なへらず口をたたくようになる(かつてその年頃の私がそうであったように)。君たちの子どもたちは(子どものいない私たち夫婦には姪たちということになろうか)、君が楽しそうに話しているというのに「また同じ話が始まった…」とため息が混じったような顔をして黙ってうつむくことだろう(かつてその年頃の私がそうであったように)。それが同級生だったらどうだ?会うたび昔の同じ話をしたところで、その都度「そうだった、そうだった」とゲラゲラ涙を流して一緒に笑ってくれるのである。孤独に苛まれる者だっているやもしれぬ。還暦とは一巡して生まれ変わること、頼みの綱はいたわりあえる「ここ」なのかもしれんぞ。再来年の3月末が今から楽しみだ。ああ、もうすぐ隠居の身。そして、また始めよう。