隠居たるもの、過ぎし月日をしんみり振り返る。2026年5月7日、私たち夫婦は、空っぽとなった部屋に佇みここで暮らした歳月に思いを馳せていた。親族の力も借りてやっとこさっとこ築16年のこの部屋を購入し、リフォームも済ませて引っ越してきたのは2002年5月25日のことだった。あれから24年。窓の外に目をやり「あの高層マンションもあっちの細長いやつもまだ建っていなかった」とか「3棟からなるマンション群が建つあそこは三角屋根の大きな工場の敷地だった」とか、ほぼ四半世紀前の風景をひとしきり想い出す。音を吸収するものが運び出され伽藍堂となった部屋に、私たちの話し声がうっすらと反響する。あの頃の私たちは40歳手前で、人生変転のそこそこ荒い波の渦中に放りこまれていた。もちろんこの間には色々なことがあった。還暦も過ぎ今こうして暮らせているということは、その荒い波もなんとか乗り切れたということだろう。ことここに及んでおセンチな心持ちになるのも人情、私たちはいよいよ私たちの苦楽が染み込んだこの部屋を引き払う。

引越しGW直前の陣と直後の陣の間
前段においてつまびらかにした引越しGW直前の陣、決行されたのは4月27日のことだった。そしてGWを挟み5月7日にこうして迎えた直後の陣。もちろん世間の行楽ムードに惑わされこの10日ほどを遊んで過ごしていたわけもない。これまでよりずっと狭い銭湯の二階の部屋に運び込まれた家具の配置に頭を捻り、手を休ませることなく段ボール箱をせっせと開き、新居の隙間に合わせたニッチな収納家具をひとつふたつ見繕っては買い求め組み立て、その他もろもろ足りない備品を買い足し、なんとか日々に暮らす場として整えた。

そればかりではない。それまで寝泊まりしていたマンションに「出勤」し、残った白馬に行くべき荷物をこれまたせっせと段ボールに詰め、長きにわたって設置していた自転車ポールやカーテンレールなどを取り外し、キッチン含め部屋の隅から隅まで掃除をする(風呂とトイレに限っては買主が「そのまま使う」と言うので、こちらはプロの技でみっちりやってもらうべく業者に頼んだ)。とはいえ体力を著しく消耗するのでマンションで作業に費やす時間は日に2時間が限度といったところ。なにしろ午前中に銭湯の二階でぎっくりばったりし、昼食をとりつつ息を抜き、それからマンションへ連日「出勤」していたのである。仕事を終え新しい住まいに帰って銭湯の大きな湯船にざぶんとつかる、それを心の拠り所としつつも、こちとら初老の身、なにしろ疲れたことに違いはない。

エンターテイメントの効能
体力を考慮しつつ少しずつではあるがきちんと進めていたから、迎える「引越しGW直後の陣」に支障らしい支障は見出せなかった。しかし、少しずつしか進まないところにもってきて疲労感が蓄積したままだからか、頭の片隅に「俺たちは引越しをやりおおせられるのだろうか」という漠然とした不安が巣くっていたことは否めない。だから頭も休まらず、そのため熟睡することもできなかったのか、起床しても心身ともに回復しているんだかどうだかわからない、そんな朝が繰り返された。そんな中、引越しを二日後の朝に控えた5月5日の夜のことだ。有明のSGCホールでスパークスとコーネリアスの対バンライブがあった。「その頃には引越し作業も峠を越えているだろうから」と私たち夫婦はドイツ語Q組の友だちとともにチケットを予約していた。両バンドともに素晴らしく素敵なライブだった。うっすらかかっていた靄がすうっと晴れて脳みそのコリがほぐれたのだろうか、6日の朝はいつになくスッキリと目が覚めた。いよいよ引越しGW直後の陣、いざ白馬!準備は整ったのである。

いざ、引越しGW直後の陣
銭湯の二階への引越しは、日々の暮らしに欠かせない、様々な大きさや形をした、その上に固さもまちまちな家具や家財の移動が中心だった。それに比して白馬への引越しは趣きが異なる。いくらかの食器や衣類の他は、私が書斎で使っていた机、愛着のあるオーディオ機器、本やCDを詰めた合計21箱の段ボール、つれあいがどこかから譲り受けそのままずっと奥にしまわれていた機織り機、そこに椅子といくらかの植栽なぞが加わる。とにかく四角くて重い。だけど体力さえあれば運びやすい。7日の朝、予定の9時より少し前にやって来たのは、10日前の引越しGW直前の陣も担当してくれた百戦錬磨の頼りになる二人と愉快なおじさん一人だった。マンションの駐車場に停めたトラックで待つおじさんのもとに、百戦錬磨の二人によって積み重ねられていた荷物があれよあれよという間に運び出される。

廃棄物も含めすべての荷物が搬出され、書類へのサインを終えたのは11時13分だった。そして冒頭に記した通り、伽藍堂となった部屋に残された私たち夫婦はしばしの間いくばくかの感慨にふける。しかしそう悠長なことも言っていられない。東京駅12時4分発長野行き新幹線に乗らなければならない。翌朝9時に到着するトラックを準備万端に迎えるべく、私たちは一路白馬へと向かう。

新幹線と高速バスを乗り継ぎ白馬に到着したのは15時10分。スーパーで買い物を済ませ、散種荘にたどり着いたのは16時の少し前。庭では馴染みとなったやはり頼りになる職人さんが、離れの基礎となるコンクリートを流し込むための型枠を作り終えるところだった。私たちの留守中に植えられていた新しい庭木を愛でながら、東京でしばらく過ごしていた間の進捗について教えてもらう。白馬はすっかり新緑の季節である。

気心の知れた引越し屋さん
「余裕を見て3時半に出発しました。え?大丈夫ですよ、昨日の夜は7時に寝ましたから。お客さんの引越しのおかげで素晴らしい景色を見ることができましたし。それに私たちは引越し屋ですからね、北は沖縄から…」とチームリーダーは相変わらず頼もしい。そこに相棒が「おい、北は沖縄って、いったい俺たちはどこで引越し屋をしてるんだ?」と的確なツッコミを入れるものだから一同爆笑である。考えてみれば、引越しそのものは一日で済むのが通常だ。しかし私たちの今回の引越しは複雑な段取りを踏まねばならなかったため、のべで三日を要した。その作業の根幹を百戦錬磨の同じスタッフが担当してくれたことは私たちに多大なる安心をもたらした。そして3回も顔を合わせれば、人間だものお互い気心が知れる。一時間足らずで荷物を下ろし終えた彼らは、「それではゆっくりと帰りますので」と頭を下げて白馬を後にした。

怒涛の五日間
5月8日に引越しのすべてが終わり、それぞれの荷物があるべきところに落ち着いた。とはいえ離れ増築は工事に入ったばかりで竣工はひと月半ほど先のこと。マンションの引き渡し日程が決まっている以上、こればかりは致し方ない。開けられるものは開けた上で、離れが出来上がるまでしばし残った段ボール群とともに暮らそうじゃないか。「ええっ⁉︎大丈夫ですか?これだけのものを離れに自分で運ぶとなると腰やっちゃいますよ?」と心配してくれる引越し屋さんに、私は「出来上がったあかつきには大工さんたちに頼んでいっしょに運んでもらうさ」と答えておいた。その大工さんたちの親分たる地元工務店の社長が9日の午前中にやってきて、詳細な仕様について昼過ぎまでみっちりと打ち合わせをした。工事はこれから佳境を迎える。

そして5月10日、私たちは早々に白馬を後にした。まず帰りがけに松本からアルピコ交通 上高地線 新島々行きに乗って3駅、信濃荒井という無人駅で降りて車を注文してあったディーラーに立ち寄り(車社会の地方ではディーラーの立地は鉄道に依存しない)、6月納車予定の車のナンバー申請書類を作り上げた。これで納車を待つばかりだ。そのまま担当者に松本駅まで送ってもらって中央線特急あずさに乗って銭湯の二階に戻る。なぜなら翌11日に仲介不動産屋事務所で引き渡しに向けた最終書類手続きをするからだ。過ぎし月日をしんみりと振り返ることから始まった五日間だけれど、終わってみればそんなおセンチな心持ちはどこへやら、ここを境にフェーズがゴロリ。なんとかここまで漕ぎ着けた。ああ、もうすぐ隠居の身。これからまた新しい四半世紀の苦楽が刻み込まれるのである。
