隠居たるもの、怪しい身体をなだめつつ過日も今日も日を送る。このところ、右肩まわりの背中側が痛んでやりきれない。ズキズキとではなくジンジンとだ。血行が悪くなっているんだか、コリがひどいんだか。どうしたものかと思案していると、いまだ隠居にたどり着いていない我が身、勤務先の同年輩の仲間から、「ぐふふ、それは五十肩だよ。少し前に反対の肩がなってたでしょ。私も両肩ともやったもの」と脅される。「そうかもしらん」と怯え、早いうちに手を打たんと左肩を診てくれた先生にお伺いを立てた。
「首からくる神経痛だね!」
手のひらを筆先でくすぐられたり、レントゲンを撮影したりして診断は下された。「し、し、神経痛 ⁈」自分が神経痛を抱えるとは思いもしていない。考えてみれば、五十肩は予期できるのに神経痛が頭の片隅にもないのも滑稽だ。もう神経痛を患う境地に到達したのだ。頚椎の5番と6番の間がつまっていて、いくらか潰れている軟骨が神経に触っているそうだ。「まあ50過ぎたら、首と肩はくるよ」と3歳下の先生に慰められる。ヘルニアというほどではないから、一週間ほどは痛み止めを飲み、週に2度か3度「首の牽引」をして、つまりをコツコツと解消するようにと指導された。そういえば、このひと月ちょっとの間に、寝違いをしたかのように首が回らなくなることが3度もあったっけ…。そのうちの1度は歩いている最中に痛み始めたものな…。
Frozen Shoulder
いわゆる五十肩・四十肩のことを、英語ではフローズンショルダーと呼ぶんだそうだ。まさに凍った肩、こちらの方がピンとくる。去年の8月、シャツに袖を通そうとしたら左肩に激痛が走り、あまりのことにしばらく声も出せなかった。そのことを話すと、経験者は皆ニヤニヤしながら「五十肩だね」と指摘した。抗ってしばらくはギックリバッタリと様子を見ていたのだが、ついうっかり凍った可動域を超えて肩を回して、たまらずに大きな声を上げることが頻発する。「健に問題が生じているのかもしれない」と口実をつけて勤務先近くは室町のYUITOに入る整形外科の門を叩いたのは9月6日のことだった。
「はい、五十肩!」先生はさっぱりと宣告してくれた。それから苦節半年。週に2、3回マイクロを当てに通い、2週間ごとの診察を受ける度に「まだまだだね」とにこやかに言われ、冬にさしかかる季節の逆境にさらされるも、今年の1月半ばに蔵王温泉に浸かったあたりから好転し、3月12日に「うん、いったん卒業」とお墨付きをもらう。そう、3月は卒業の季節。「大人の階段」をまたひとつ昇りきった爽やかな気分だった。先生は、「右肩もなったらすぐに来なさいね」と私を送り出してくれた。右肩が痛むから頼りにしたんだけれど、今度はなんと神経痛…。もうひとつ、階段を昇らなければいけないわけだ。
首を牽引されながら想い出すことなど
首を引っ張り上げられているから、下を向いて本を読んだりすることもできない。今日、向かいの三井トラストタワーを凝視しながら想い出したことがある。そうだ、ちょうど今の私と同じ歳の頃に、亡き親父も首を牽引していたっけ。親父はせっかちで待たされるのが苦手で、その一方で貧乏暇なしで病院に足繁く通う時間もなかったから、器械を手に入れて自宅の茶の間でやっていた。これもまたちょっと乱暴なあの人らしいのだが、その器械を4畳半の茶の間の柱に打ちつけてである。そして、私に命じたものだ、「俺はこれから首をつるから、時間を計っておけ」と。今になって思うと、言葉の選択が微妙に不適切だ。プロレスとか大江戸捜査網を見ながら心持ち伸びていた親父の姿、「20分たったよ」とか声かけてたっけなあ。そうか、親父も神経痛だったのか…。95歳と8ヶ月で親父が天に召されてからもう少しで5年になる。
こうしてキーボードを打っていても右肩裏側はジンジンと痛む。今年のうちには治したいものだ。ああ、もうすぐ隠居の身。親父をなぞらえる私は、おそらく長命だろう。