隠居たるもの、雲散霧消で身体も軽い。2023年8月23日午後1時半、ランチタイムにしては遅いこの時間、私たちは錦糸町の街をうろついていた。つれあいが「美味しいうどんを食べたい」と言うものだから、インターネットで検索したうどん屋を順番にあたっていたのである。人気ベスト5のうち上位二軒は休み。3位にランキングされた店の看板が見えたので「ようやく」と胸をなでおろしたものの、前まで来てみるとシャターが半分閉まっていて「準備中」…。どうやらランチタイム営業をついさっき終えたようだ。しかし私たちは「こんなこともあらあな」と心が軽い。墨東病院の診察の帰りだからだ。診断結果は「経過観察」、つまり大事には至らず、ということだった。
はたして彼女は啖呵が切れたのか
「奥さん、大丈夫?でもさ、彼女は本当に君のブログ出だしのあんな風に啖呵を切ったの?とてもそんなことできそうに思えない、穏やかな人じゃないか」前回の省察を読んだ大学の友だちが私に問いかける。8月20日の晩のこと、文学部ドイツ語Q組の同級生3人でベトナム料理を食べていた。消化がいいと思われる夕食を静かに少しだけとりつつ留守番をしているつれあいを思い浮かべ、私は質問に答える。「『まさにあの通りにやってやった』と本人は言ってるけど。確かにしそうなタイプじゃない。でも俺といっしょになってすでに四半世紀以上も下町で暮らしているからな、できるようにもなるんじゃないの?必要とあらばさ。」そしてつれあいの症状について心配してくれる友だちに、「正式な診断確定はまだなんだけど、おそらくこういうことなんだよ」と説明を始める。
まずは白馬診療所の先生の見立て
「どれどれ」と胃のまわりを数箇所にわたって手でおさえ、白馬診療所の初老の先生はすぐにCTスキャンの指示を出したそうだ。つれあいが嘔吐を度重ねたにもかかわらずしつこく吐き気につきまとわりつかれてから3日目、8月15日のことだった。同じ食事をして過ごしている私がなんともないから、食中毒ということは考えづらい。「胃痙攣ってやつか?」などと首をひねる素人二人に、CTスキャンの画像を見ながら、先生は見立てをご教示くださった。「触診して固くないから原因は胃ではないと思ったんだけど、やっぱり胆のうに石がある。そう、胆石だね。」
無症状のことも多いが、一般的な症状として右脇腹の激しい痛みが典型的で、これに右肩や背中の痛みが追随する場合もある。また、上記右側背面に鈍い痛みや重い感じなどの自覚症状として現れることもあれば、石が十二指腸にひっかかって脳に「吐け」と信号を送ることによって吐き気や嘔吐を伴うこともしばしばある。つれあいは鈍い痛みや重い感じが自覚されることもあったそうだ。「最悪の場合に胆管炎や膵炎につながることもあるし、ろくすっぽご飯も食べれずにいるからこの酷暑で身体を維持するのも大変。これ以上の検査をする設備はここにはないし、点滴もしてあげられない。できることなら大きな街に早く移動するに越したことはない」先生は優しく諭してくださった。だから1日前倒しで大慌てで東京に戻ったのだ。それなのに若い先生は悠長なことを言う。つれあいが啖呵を切るのも無理もない。
次に私のかかりつけ医の見立て
8月21日、常用している降圧剤をもらいにかかりつけ医の診察を受けた。スキー好きで白馬のゲレンデ事情を語り合う消化器内科が専門の初老の先生である。ひと月に一度であるから当然のこと世間話に花が咲く。「奥さんがコロナにかかったんですか?ふむ。同時期にあなたは熱は出なかったけど、けっこうノドが痛かった?ふむ。なのにPCR検査は陰性?ふむ。検査をすり抜けることもあります。そして以前と違っておおむね軽症でね、滅多に劇症化しません。総合的に考ると、あなたもコロナにかかってましたね、それは。え?そして奥さんが胆石の疑い?症状が出る前後にどんな食事しました?ふむ。海老天おろしそば、白馬ポークの炭火焼き、うな重、そして白馬ポークの鉄板焼き…。ふむ。はっはっは、これまたずいぶんと胆のうを派手に収縮させましたな。そういう脂っこい料理を摂ると胆のうは収縮するんです。その際に石が胆管を下りてきてしまってね、胆石発作を起こしたんでしょう。う〜ん…、胆のうにまだ石があるのがわかっていても、衝撃波で破砕して小さくしてしまうとかえって簡単に胆管を下りてきて悪さするから現在はそういう治療はしません。そしてCTに写るほど大きいと『溶かす』という投薬もできない。」やはり餅は餅屋。経験豊富な初老の先生はお見通しなのである。
そして墨東病院の若い先生の見立て
「嘔吐と吐き気ですから食道や胃のがんを疑わないわけにはいきません。胃カメラの結果はとてもきれいなものでした。心配していたんでよかったです。え?造影剤を入れてのCTスキャンの方はどうかって?そうでしたね、ええ、確かに胆のうに石があります。でももう吐き気はないんですよね?十二指腸にひっかかって発作を引き起こしていた石はもう流れたんでしょう。今後の治療という治療はありません。このまま様子を見てください」つまり、今すぐ胆のうを摘出しなければならないほどに深刻ではないが、私のかかりつけ医に教わった通りこれといった治療法もなし。胆石持ちは10人に1人、胆のうに石があることを頭に入れた上で食生活などを気遣いつつ「経過観察」、ということで一件落着した。それにしてもこの先生、どういうわけか胆石に対して冷淡なのが不思議ではある、笑。
「東東京では高齢な方々が酒を飲んでいる」
美味しいうどんにありつけなかった私たちは、結局スパゲッティを食べた。かすかだったとはいえ不安の種がなくなったつれあいの顔は晴れやかだ。不測の診断に備えてつきそった私も同様である。遅いランチタイムのテーブルについているのは私たちの他に70歳くらいのご夫婦二組だった。その二組がそろって昼から酒を嗜んでいる。さすが錦糸町である。「あんたといっしょになって初めて東東京で暮らすことになったとき、『いいなあ』って思ったことがひとつあってね。西東京では高齢の人が外で酒を飲むって光景をあまり見かけなかったんだけど、こっちでは年とった人も楽しそうにあちこちで酒飲んでるじゃない?『ああ、いいなあ』ってね…」お墨つきをもらって安心できた以上、今晩なにを肴にして、どんな酒を飲むか、舌なめずりで算段するつれあいであった。
「奥さん、大丈夫?」と気にかけてくれたQ組の同級生同様、前段をアップしてからというもの、あちこちからお気遣いをいただいた。診断も確定したことだし、ここに顛末をご報告します。うまい具合にちょうど今日、つれあいの腕時計の電池が切れた。それを交換しに駅前の丸井についでに立ち寄る。灼熱の東京を離れ、明日から予定通り白馬に戻る。つれあいの還暦パーティーもそこで仕切り直しだ。ああ、もうすぐ隠居の身。帳尻が合って時計は再び動き出した。