隠居たるもの、思慮の浅さが身にしみる。「どうだ」と言わんばかりに鼻息荒く見栄を切ったはいいが、予期せぬ言葉を返されて気持ちよく腰が砕け、「これは一本とられました」とシャッポを脱いだことはないだろうか。清々しいまでにギャフンとなったことが私にはある。責任を取るべき人たちが、右往左往するばかりで信ずるに足る振る舞いを一向にしてくれない今日この頃。ここぞとばかりに猛々しく見栄を切る者たちが現れ、分かったような顔して「暴論」をまき散らして胸を張る。そんな時、あの言葉を想い出すのだ。
生産者ばおるけんね、少しは吸ったらよかったい
かつてはヘビースモーカーだった。2012年の暮れ、最後の1本を吸ったきり煙草はやめた。その時には拍子抜けするほどあっさりやめられたのだが、それ以前に何度か意地汚く禁煙に失敗している。2011年の秋、だらしない結果に終わったそんな禁煙中のことだったろうか、例のごとくつれあいの帰省にお供して熊本に足を運び、市内から少し離れた村祭りの夜、本家で親族一同が集う宴会の末席についた。「あれ?煙草を吸いよらんね」と本家当主の奥方が気づく。私は鼻息荒く胸を張った。「ははは、やめたんですよ」褒められるかと思いきや、間髪入れずに奥方はツッコむ。「生産者ばおるけんね、少しは吸ったらよかったい」“あんたの健康のためにはそりゃあやめた方がよいのではあろうが、ここは農村地帯で煙草を栽培してそれを生業にしている人もいる、だから、愚かしく威張ってないでカッコだけでも少しは吸ってみせたらいいだろう”というわけである。その度量に痛快なほど舌を巻いた。
気にかける人ばおるけんね、少しは配慮したらよかったい
「マスクで予防できるという根拠はない。WHOもそう言っている。つけろと言われたから諾々と従ってみんなでつける。相変わらず従順で大人しく情けない子羊たち!目を覚ませ!」といった類のなぜか怒っている投稿をSNSで目にしたことはないだろうか。親の仇かなんかでマスクに抜き差しならない恨みでもあるんだろうか?あまりにも乱暴で難儀な話だ。確かにWHOは「それ自体でコロナを防ぎうるものではない」としているが、一方で「マスク着用は総合的予防対策の一環」で「感染が広がっている地域の公共の場でのマスク着用を推奨する」とも公式に発表している。エビデンスとして確立されていないとしても、マスク着用を嫌がらない東アジアは明らかに「結果」を出している。それに、言われたからでなく、私は自分の意志でマスクをつけている。ここは抗うポイントではない。
小名木川沿いの、幅も広くない遊歩道を散歩していると、私と同年輩の男性がジョギングをしていた。彼はマスクをしていなかった。もう少しですれ違うというあたりで、「暑いのはわかるが、ハアハアいっちゃってるしなぁ…」と少し私の眉間にしわが寄る。すると、彼は手にした汗拭き用小タオルを当たり前のように口に当て、そのままの形で私の横を走り過ぎていった。慣れている様子の臨機応変な気遣いに感じ入った。持病や体質的にマスクができない人がいるのはわかっている。屋外では常につけなくてもいいだろう。「マスクをつけろ!」と自粛警察のように荒ぶることはしない。どちらにしたって頑なになる必要はない。だけれども、しかるべき時は「気にかける人ばおるけんね、少しは配慮したらよかったい」私はそう思う。
知りたか人ばおるけんね、気張って報道したらよかったい
「検査数が増えているのだから新規感染者数が多くなるのは当たり前だ。重症者数も多くはないんだし、マスコミは一方的に不安を煽りすぎだ」とやはり怒っている人がいる。調子に乗ったワイドショーもあるのだろうけど、果たして“煽りすぎ”だろうか?6月2日に新規感染者数34人で東京アラートを出してすぐに引っ込めて、感染者数が増加し続けた都知事選挙の前後には「大丈夫」と強弁して「夜の繁華街」を悪者にする以外に何もせず、今になって年齢層や重症者からみても「感染が拡大していると思われるから、東京都民は4連休に不要不急の外出を控えるように」って、都知事あなたはボードをこしらえて掲げるだけだ。その結果、今日23日の東京における新規感染者は366人となった。検査数が増えているのは間違いない(それにしても諸国から比較して圧倒的に少ないまま)。だからといって、このあからさまな感染者増加の推移を看過していいものだろうか?発表される政府の見解は一貫せず、相変わらず恣意的に情報を開示し、「Go To」などと勇ましくかけ声をかける。誰かが危機感を喚起していなかったら、目もあてられないことになっていないか?それこそがマスコミの仕事なのではないか?私はそう思う。目くじら立てるのはそこじゃない。
NYタイムスが、「香港国家安全維持法」の発効を受け、アジアにおけるデジタルニュース部門の拠点を香港からソウルに移すことを発表した。その他にシンガポール、バンコク、そして東京を候補地としながらも「他の様々な理由のなかでとりわけ、外国企業に対して友好的であること、報道の独立性、主要なアジアのニュースにおいても中心的な役割を果たしていることが魅力的である」からソウルに決めたと公表している。詳しくは上の「リテラ」の記事に目を通していただきたいが、日本のマスコミは概ね「外国企業に友好的であること、アジアの主要なニュースにおいても中心的な役割を果たしていること」の2点のみを決定の理由として報道し、「報道の独立性」が理由のひとつしてあげられていることにはほっかむりを決め込んだ。リテラの記事からそのまま引用する。
どうにも晴れない「鬱々とした気分」の正体
「フランスに本部を置く国際的なジャーナリストのNGO『国境なき記者団』が毎年発表する『報道の自由度ランキング』では、民主党政権時代の2010年には11位だったのに対し、第二次安倍政権発足以降急落し2013年53位、2014年59位、2015年61位、2016年72位、2017年72位、2018年67位、2019年67位。今年4月に発表されたランキングでも、政権批判をした記者がSNSで攻撃を受けているなどとして、66位だった。G7のなかで最下位なのはもちろん、日本より下にランクされているのは多くは独裁国家や軍事国家ばかりで日本は民主主義先進国とは言えない状態だ。」
「報道の独立性」がソウルの決め手になったことを正しく報道し、「そんなことはない!」と反論するなり、同調して「不当な圧力の下、実は報道の独立性が侵害されている!」と主張することもしない。何もかもひっそりとなかったことにするだけ…。私はこう思う。抗うポイントはここである。目くじら立てるところはここである。新型コロナに限らず、矜恃を思い起こしてもっともっと斬りこんで仕事をして欲しい。さすれば「暴論」の音量も少しは小さくなるだろう。どっちにしたって今はこんな…。ああ、もうすぐ隠居の身。私はわきまえて自分で判断するさ。