隠居たるもの、節目の際のにぎやかし。2024年12月1日、師走に入ったにも関わらず「雲ひとつない爽やかな秋晴れ」とでも呼ぶべき穏やかな日曜日の午前中、私たち夫婦は門前仲町の富岡八幡宮に向かって急いでいた。メロン坊やの七五三をともに寿ぐ(ことほぐ)ため「午前11時には来てくれろ」と伝えられていたのに、録画してあったテレビ東京の「新美の巨人たち」につい見入ってしまい、予定していた時間から出立が遅れていたのだ。我が庵から富岡八幡宮までは南に向かってほぼ一本道、急いでいるからといって大通りまで出てタクシーをひろって一方通行を迂回したり、西にはずれる駅まで歩いて一駅だけ地下鉄に乗って先方の駅からまた歩いて東に戻ってくるより、最初から一直線に歩いた方が結局のところ早い。うっすら汗ばむくらいに精を出しなんとか10時45分に着いてみると、富岡八幡宮には「江戸の風」が吹いていた。

いよぉ〜 お〜ぉん やりょぉ〜

横手の東参道から富岡八幡宮に入ると、おそろいの着物姿をした姐さんたちが「ほらっ、出番だよ」とばかり正面参道入り口の鳥居へ回り込もうと息せき切って歩いておられた。「どうしたってんだい?七五三どころかなにやら艶っぽいねえ」などと鼻の下を伸ばし気味に本殿の前に至り、メロン坊やご一行を待つ。すると鳥居の方からかすかに唸り声のようなものが聞こえてくる。やはり東参道からメロン坊やの父親が「今日はありがとうございます」と手を上げて現れる。一方で唸り声は大きくなり、「いよぉ〜 お〜ぉん やりょぉ〜」「え〜ぇえ〜 よぉ〜」と掛け合いとなりゆっくりとこちらに進んでくる。「あれはなんかの行列だね。先導するのは鯔背(いなせ)で睨みをきかせた半纏姿の男衆。あ、鳶だ、木遣り歌だ、粋だねえ。その後ろにあの艶っぽい姐さんたちが連なってるよ。そのすぐ後に新郎新婦!婚礼だ、拝殿の参進行列ってぇわけだ!さすが深川 富岡八幡だぜ!」いい歳して興奮してお恥ずかしい限りではあるが、おいそれとお目にかかれる光景ではない。

新郎新婦の参進行列

この日は大安吉日。東陽町に建つホテルイースト21東京のバスが裏に停まっていたから、式を終えてみなさん連れだってそれに乗り込みお昼からの披露宴に移動するのだろう。ここいらへんで大きな商いをしている人はそこでパーティーをしたがるもので、男衆の半纏には「木場」とあったし、「江戸から続く材木商の家の婚礼に違いない」などと勝手に想像を膨らませる。どちらにしろこの婚礼が終わるまで祈祷は始まらないから、メロン坊やと両親の他に6人の大人と2人の子ども、総勢11人はそれまでの間、言われるがままフォトセッションでポーズを決める。

5歳男子の「袴着の儀」

「七五三」は、子どもの健康と成長を願う人生の節目の行事で、5歳の男の子にとっては「袴着の儀」、つまり初めて袴をはかせる儀式なのだそうだ。袴をはいたメロン坊やはノリノリで誇らしげだ。私たち夫婦はいざ写真撮影となる段に気づき後悔する。考えもなく、ついうっかり日常的にかけている調光レンズの眼鏡のまま駆けつけてしまった。これだけの晴天である。フォトセッションは屋外で繰り広げられるから、紫外線に反応する私たちのレンズは常に色の濃いサングラスの状態となる。後々まで残る記念写真に私たちだけが「ワケあり筋の人」という風情で写るのもしのびない。とりわけても私はかねてより「顔が怖い」と言われてきた。ゆえに、被写体として出番が回ってきそうなタイミングを見計らい紫外線があたらないよう上着のうちに眼鏡を隠し「はい、チーズ!」と同時にかけ直す、という涙ぐましい努力を重ねていたわけだが、かえすがえすもこれだけの晴天である、にこやかな表情とは裏腹に写真に写る私のメガネはいつだってうっすらと色がついていた。

「おじさん」は社会の敵で根源的な誘惑者

しかし大叔父は「社会の敵で根源的な誘惑者」であるからそれでいいのだ。さかのぼること4年半、以前に私は文学者 高橋源一郎が語った「車寅次郎論」をもとに、「『おじさん』は社会の敵で根源的な誘惑者」(https://inkyo-soon.com/the-public-enemy/)と題する省察をしたためた。彼が語る「真のおじさん」論(「真のおじさん」とは、文化人類学にある「稀人(まれびと)」という概念に重なる「先達者であって、外からの知識を持ってくる人」のこと)に感銘を受け、そうありたいと能天気に綴った。だから眼鏡のレンズはうっすら色づいているくらいがちょうどいい。現にフォトセッションの最中、主役でない者には出番が滅多に回ってこないことをいいことに、本殿で執り行われている婚礼の最後列に並んで参席する艶っぽい姐さんたちが気になって仕方なく、こっそりこんな写真を撮っていたりするのである。

「秋」の佳き日の家族写真

集った親族による様々な組み合わせと数々の背景、常に真ん中でポーズをとらされ集中力が切れかかるメロン坊やをなだめすかしながらフォトセッションは進む。しつこいようだがこれだけの晴天である。プロの手による素敵な写真が何枚もできあがる。7年前の刃傷沙汰も今となってはすっかり昔、この日、富岡八幡宮はかきいれどきだ。婚礼が終わると即座に七五三の祈祷申込者が呼び込まれた。メロン坊やご一行が本殿に入っている間、私たちは来年に七五三を迎える姪孫たち、6歳の女の子と4歳の男の子の姉弟と遊ぶ。祈祷が終わり、メロン坊やが母親ともども着物から普段着に着替えるためいったん家に帰っている間も、境内の蚤の市を冷やかしたり近くの公園でシーソーに興じたり。そして隣の深川不動堂の参道にある大和田に再び総勢11人で集って祝いに鰻を食し、そろって金魚すくいに熱中する姪孫3人を見守る。12月とはいえ本年最後の「秋」の佳き日は、こうしてつつがなく締めくくられた。

師走ともなると

中学高校の大先輩に田中一村という絵描きがいた。美術に秀でた学校でもないから芸術家となる卒業生は少ないのだけれども、それでも母校のロビーには画家になった方々もしくはその支援者から寄贈された作品が何枚もかかっていて、その中に奄美を描いた一村の一枚もあった。生前に顧みられることのなかった先輩が、今になってようやく「神格化」されている。あわや「七五三に遅刻」という原因になりかけた、テレビ東京の「新美の巨人たち」はその田中一村を特集したものだった。

先日の11月28日、上野の東京都美術館で開催されていた「田中一村展」に出かけた。驚くほどに混んでいてすぐに入場もできず、1時間後の回を予約することを求められた。おかげで上野公園をゆっくり散歩することができ、一年を通して秋と呼べるような日がもはやほんの数日しか訪れない東京の「晩秋」を期せずして味わえた。考えてみれば、10月末からの白馬に始まり、11月中盤の阿蘇、そしてここ一週間ほどの東京と、幸いなこと紅葉だけはこの秋じっくり楽しめた。そして師走である。つれあいの仕事場の引越し、本格的に雪が降る前の冬支度、大掃除と新年の準備、ボードシーズンに向けての体づくり、すべきことが目白押しだ。ああ、もうすぐ隠居の身。人生最後の本厄の年もこうして終わりつつある。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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