隠居たるもの、愉快な座談をさらりとこなす。この15年でより進んだのは間違いないが、私は子供の頃より落語を好む。古いものをやたらにありがたがるタチでは毛頭ないから、古典芸能として崇めているわけではない。「ついでに生きてる」とは、古今亭志ん生の名言。ここにすべてが詰まっている。
「ついでに生きてる」って、なんの“ついで”に?

息子の古今亭志ん朝が話したお父さんとのエピソードで、とても好きなものがある。志ん朝が真打ちになったころ、人気が沸騰してテレビの撮影所に行くため、朝6時に起きてがたがたしてたそうだ。志ん生が起きてくる。
「なにしてんだい?」ってえから、「これから仕事なんだよ」って言ったら、「おまえ、噺家がこんなに早く起きちゃ駄目だよ、新聞でも配達に行くのかと思ったよ。」「いや、そうじゃないんだよ。撮影があんだよ」ってったら、「つまんねえことしてやんなあ」っていわれたの。
そういうことなのだ。
東向島の亀ちゃん
落語は、私が育ち成長し、そして今も住んでいるテリトリーを「舞台」とする。まれにではあるが、落語の世界の住人のような人はまだいる。腕っぷしが強くて気のいい東向島の亀ちゃんとか。そして、落語の基本は判官贔屓。弱いものいじめをしない。噺もそうだが、寄席で若い者に理不尽なことをさせてはしゃいだり、人をくさしてあざとく笑いをとったりしない。だから、涙を流して笑った後に、ふと気づいて嫌な気持ちになることがない。
人間国宝は忖度をしない

今年のお正月、上野鈴本での新春興行。「天皇陛下が代替わりすることは決まってんだから、もう元号も決めて発表すればいいのに。みんな、その方が助かるんだから。でもねぇ、ほんとはもう決まってて、一番大きなカレンダー会社にだけこっそり教えて汚いことしようとしてるんでしょう、山口県出身の人あたりが…。」なんて人間国宝がボソリというものだから場内大爆笑。くさすのは力を誇示するものとその取巻きに限られる。面倒くさい忖度をしたくないから、師匠はTVに出るのも好きではない。
気が滅入るねぇ…。
もちろん例外もあるし熱意に差もあるけど、そもそも金が稼げると考えて噺家になってないから、それぞれが好きな「芸」についてだけは呑気ではあってもそれなりに真剣。それにひきかえ、なにをやってるんだろうねぇ。自分たちのことを「芸人」と呼んでるあの兄ちゃんたちは。反社会的勢力の宴会に、のこのこ手を擦り合わせて顔を出していたってえじゃねえか。大きな声を張り上げるばかりで、金欲しさに人でなしの太鼓持ちに成り下がる浅ましさよ。まあ、吉本興業とかいうあの会社自体もそんなものか。筋が通らねえったらありゃしない。ああ、やだやだ…。
なんの“ついで”なのか、いまだはっきりとはわからない。だけれども、軽やかにいきたいねえ。ああ、もうすぐ隠居の身。「世の中 ついでに 生きてたい」。