隠居たるもの、運よく酷暑をよけている。2022年6月27日月曜日、関東甲信・東海・九州南部地方で正式に梅雨明けが発表された。観測史上最速だそうだ。その前の週末からむやみに外を出歩けないような陽気になっていたから「ことによると梅雨はもう終わっちまったんじゃあないのかい?」と怪しんではいたのだ。まだ6月だというのに「もう遠慮する必要もなくなったんで」と言わんばかりの酷暑が襲いかかる。熱中症への警戒を呼びかけながら「とんでもなく電力逼迫中だから節電に協力しろ」と相矛盾する要請がヒステリックに連呼される。私たち夫婦は29日に白馬入りする予定を従前より立てていた。これを予期していたわけではもちろんないが、コンクリートと鉄が蓄熱する東京の酷暑から逃れられるのはなにより僥倖ではあった。
八方池に吹き渡る冷たい風
滞在中の天気予報と照らし合わせて、到着翌日の6月30日、早速に八方尾根を登り八方池までトレッキングすることにした。登るといっても、ヴィクトワール・シュヴァルブラン・村男Ⅲ世と談笑しつつゴンドラに乗り込めば、その後2本のリフトに乗り継ぐ八方アルペンラインが標高1830m八方池山荘まで連れていってくれる。そこから標高にして230m分、往復にして6kmほどのトレッキング。この日の東京の最高気温は36.4℃だったそうだが、こちら白馬は「少し雲がかかった晴れ」という絶好の登山日和。標高2000mを超える北アルプスの山の上は、もちろん地上よりはずっと涼しくまだ雪が残っている。そのつもりで靴を選んではいたものの、この軽いトレッキングでも雪上を歩く場面はあった。1時間と少し登って目的地の八方池のほとり、身体が火照っていたから長袖シャツを脱いだまま半袖のTシャツ一枚でくつろぎ、そして持参したおにぎりをほおばろうとしたまさにその時、とても冷たい風が吹いて汗が瞬時に冷えた。私は慌てて長袖シャツを羽織った。
平川を流れ落ちる冷たい水
7月1日午前10時を少し回ったところ、自転車にまたがって風を切っていた。ペダルを踏み込むこともなく、ホームセンター コメリへ颯爽と山を下りていた。朝6時のこと、普段より早く起きたつれあいが「ひゃあ〜!」と悲鳴をあげた。慌てて1階に下りてみると、アリの大群が我が物顔でキッチンの床を徘徊している。一匹が抜け穴を見つけ家の中に忍び込むと、そのアリは経路にフェロモンを残し仲間たちに侵入ルートを知らしめるんだそうだ。「パン屑を落として歩くヘンゼルとグレーテルみたい」とつい感心してしまうのだけれど、悠長なことばかりも言っていられない。インターネットで調べた「食器用洗剤を水で割って、霧吹きで吹きかけて窒息させる」作戦を採用し、早朝から汗びっしょり「アリ退治」にあけくれる。建てつけの構造からできていた「侵入口」も断定できた。そしてアリ用殺虫剤を買うべく山を下りている。県道33号線にかかる白馬オリンピック大橋で自転車をとめ五竜岳を眺めやる。夏だ。平川の冷たそうな流れに少しは涼やかな心持ちになるが、帰りの炎天にさらされたヒルクライムを思うと、やはりそうとばかりは言っていられない。
標高が高いなら高いだけ、陽射しは獰猛になる
この日、東京の最高気温は37℃に達したそうだが、気候変動から白馬だけが免れるわけでもなく、標高700mと少しになる県道33号線あたりの最高気温は32℃だった。ついでにランチを外で済ませたそんなお昼どき、私たちは諸々の殺虫剤(家の中で一匹ゲジゲジも見かけていたから、アリ用だけでなく各種を取りそろえた)を背負って、平川沿いのヒルクライムに挑む。標高が少しでも高くなると、その分だけ太陽との距離は近くなる。陽射しが獰猛になるのが体感され、日除けにかぶったハットの下から汗が噴き出す。ようよう散種荘に着いたのは午後12時40分、とりあえずアリキンチョールを「侵入口」に噴射し、そそくさと海水パンツに履き替える。平川で見つけた水浴びスポットで身体を冷やそう、そう思い立ったのだ。
平川は頭が痛くなるほどに冷たい
せっかく海水パンツに履き替えたのだから、思いっきりザブンとつかろうと思ったのだけれど、いかんせん平川は頭が痛くなるほどに冷たく、初老にさしかかった私は腿までが精一杯で、スゴスゴと河原に上がってつれあいにカラカラと笑われた。前の日に見た山の雪は、この日は流れる水に姿を変えて、ここでは私の両脚を流れる血液を瞬時に冷やしたのであった。それに伴う涼感が体内をかけ巡る。こうとなったら日陰に退散するだけであとはいい。
闇夜にあの子が呼んでいる
日中32℃に達した日でさえ、白馬でエアコンをつけることはない。陽射しこそ獰猛に違いないが、それを避けて日陰に身を置けばそれで済む。湿度も低く、渡る風がどこかのエアコン室外機の熱気を拾ってくることもない。せっかくの晴天である。陽の力が弱くなったのをいいことに、私たちは夕刻より性懲りも無くウッドデッキで炭火焼きを味わう。あたりはまだ明るく、四十雀が「ツーピーツーピー」と囀り合っている。そして夜8時ともなれば外気は冷える。風邪をひくからと開け放っていた窓をしめる。映画を一本観終えて10時半、朝からバタバタだったのでもうすっかり眠い。寝床に入って大きく深呼吸すると、それに呼応したかのごとき低い声が聞こえてくる。枕元の少し上に位置する窓のすぐ向こうからだ。「ホー、ホー。ホー、ホー。」ああ、もうすぐ隠居の身。フクロウが静かな樹間から呼んでいる。