隠居たるもの、ふとした弾みに出向く場所がある。私にとってそんな先のひとつが鈴本演芸場だ。前々回の省察で、My Apple Watchのそそっかしさを紹介し、それに触発されて「なんだか落語が観たくなった」とつぶやいた。一旦そうなったら収まりがつかないのが人情だ。加えて「正月ニ之席のうちに行きたいじゃないの」などと勝手に慌て出す。友人を誘うのももどかしく、ひとり上野に足を運んだ。

いわゆる通は、正月ニ之席を好む

寄席というのは、ひと月を10日ごとに上席・中席・下席に区切り、またそれぞれを昼席と夜席の二部構成にして、出演者や出し物を替えて興行する。かの世界はめでたい雰囲気を好むから、一月については、10日までを初席(このときばかりは三部構成)、11から20日までを正月ニ之席と呼び名を変える。初席は「顔見世興行」で大勢の出演者が入れ替わり立ち代り高座に上がる。しかし、各々の持ち時間は短く、新年の挨拶と小噺程度でそそくさと下がってしまい、華やかには違いないがじっくりと噺が聴けず物足りない。そこからするとニ之席は、まだ正月興行で力が入っていて出演する噺家の質は高く、それぞれの持ち時間も長く、好事家にとって豪華な内容となる。多分にヨイショではあるが、「正月二之席に来る方がわかってる本当のお客様。初席にいらっしゃる方々は一年でその時しか来ないもの」と口にして笑わせる出演者もいた。

さらに私は鈴本演芸場の昼席を好む

東京にいくつかある寄席の中で、鈴本演芸場が最も好きだ。普段の行動領域内にあるということも大きいが、それ以上に、照明やら座席やら落語に集中できるしつらえが好ましいのだ。浅草演芸ホールのような観光地にもなっていない。もうひとつ言えば、夜席よりも昼席が好きだ。無理矢理に仕事や用事を片付け駆けつけた人たちが醸す「さあ、落語を聴かせてみやがれ」という思い詰めたエネルギーが充満することもなく、「暇だったし、なんだか寄席に来ちゃった」という類のぬるい空気が漂っている。それこそが求めているものにふさわしい。向かう途中に三越前の三越本店か御徒町の松坂屋の地下食品売場でお弁当を購入して持参し、12時の売り出しまで少し並んで当日券を買って中に入る。今回は三越本店で崎陽軒の炒飯弁当をチョイスした。横浜のソウルフード崎陽軒、お弁当もシウマイ弁当をはじめどれもこれも本当に美味しい。12時15分から前座の開口一番が始まる。ビールは場内2階の自動販売機で調達してある。のんきに昼から飲むのだ。

春風亭一之輔の眠たげな凄さ

上手たちが繰り広げる噺に笑い転げた。16時あたり、この日のトリ、春風亭一之輔が高座に上がる。いつも眠たげだけど、とっても面白く、大変に売れている若い噺家だ。ひと月前だったろうか、たまたま見たNHK Eテレの番組「落語ディーパー」で、俳優の東出昌大と「大工調べ」について語っていた。「啖呵」が主題だったのだが、彼がその一方で語った「与太郎」論に唸った。「その噺家個人の人間的愛嬌が与太郎には出る」というのだ。その場にいた立川流の二つ目に「だから君はゴウツク大家は上手いんだけど与太郎は下手だ」と突っ込んで笑わせた。「与太郎は馬鹿ではない。大概の人間がそう思っているんだけども言わないでおくことを、そのまま口にしてしまう愛すべき人間なのだ」と。よく聞くような論ではあるが、心底から得心がいったのは初めてだった。与太郎は、今でいう「発達障害」(この単語の字面を常々疑問に思っている)で、だからこそ差別意識を持っている者が演じるとそれがそのまま出てしまうのだろう。一之輔の与太郎は抜群に面白い。柳家小三治もうまかった。あらゆる人に向けられた暖かい眼差しがそこに感じられる。与太郎を仲間はずれにせず、常に気にかける江戸の風情も心地よい。想い起こしてみると、立川談志の与太郎は顔を背けたくなるほどにつまらなかった。

力が抜けて夜、何事もなかったように

春風亭一之輔は、元は講釈噺の「浜野矩随(はまののりゆき)」を演った。硬派な噺なのに自身のキャラをわきまえた彼にかかると随所に笑いどころが散りばめられる。柳家喬太郎と並び、間違いなく今一番面白い噺家だ。

半日楽しみ、コリがほぐれるというか、無駄な力が抜けて帰宅する。そして庵から歩いて2分のジムに行く。自己満足できる程度にウェイトトレーニングして帰って、風呂に入ってつれあいと晩酌をする。ああ、もうすぐ隠居の身。特別ではないけど、ことのほかにいい一日だった。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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