隠居たるもの、大向こうを当たり前の装いで唸らせる。奇矯な格好で「年寄りの冷や水」呼ばわりされるのは本意ではない。頑張ったつもりが「若づくり」と含み笑いされるのも癪にさわる。だからといって、「安全」なものばかりを身につけていると、本当に老け込み埋没する。衣服を重ねて着込む季節を前に、このあたりのことはきちんと考察せねばならない。
カジュアル化するドレスコードのはざまで
今般、ドレスコードはカジュアル化の一途だ。いまだ隠居にたどり着いていない我が身の勤め先も例外ではない。そんな風潮だからこそ、「寸分の隙もなくビシッとスーツで固める」というのも、大人の嗜みのひとつとはいえるだろう。それが望ましいTPOではそうしているつもりだ。だがしかし、ふと気づくと年長の部類に入ることが多くなった昨今、そうでない時もこれ見よがしに“権威”を体現するような装いでいることは、「はしたない」と私は思うのだ。とりわけても、私は顔がいかつく、老眼になってから眼鏡をかけるようになって幾分は緩和されたといえども、今でも時おり意味ありげな “眼光” を垣間見せてしまうことがある。とりあえず恐る恐るネクタイだけを外した周囲を尻目に、いかつさをカバーすべく、私は率先してカジュアル化に取り組んでいる。セーターを日々取っ替え引っ替えしながら。
2006年5月27日 パリ
セルジオ・マルキオンネという人をご存知だろうか。イタリアではロックスター的な存在だったそうだ。フィアット・クライスラー・オートモービルズおよびフェラーリのCEOを務めて、いくつもの瀕死カーメーカーを立て直した人だ。昨年の7月に惜しまれて亡くなっている。彼はいつだってセーター姿だった。オバマ大統領と会談するときもスーツを着用しなかった。スーツやジャケットはなんらかの“権威”と“支配”を体現するものと感じていて、自分はそれらと無縁でいたいと考えていたのではなかろうか。
2006年の初夏にパリを旅したことがある。ソルボンヌ大学近くのカフェで休憩していると、隣でにこやかに会話を楽しんでいる人たちがいた。そのうちの一人が普通のセーター姿だったのだが、それがなんとも素敵だった。彼そのものが「カッコいい」ということもある。でもそれだけじゃない。“上着”というなんらかを定義しかねない七面倒くさいものを身につけず、ポケットもなければ隠すこともない、“身ひとつ”という風情を漂わせ、“自由闊達”な雰囲気を醸し出していたのだ。
JOHN SMEDLEYのセーター
つれあいはずいぶん前から気づいていたし、10年前の秋にロンドンを訪れた際も「やっぱりイギリス、セーター姿の男子が多い」「セーター姿の男はカッコいい」などと口にしていたっけ。彼女は30年を超えてずうっとアパレルの仕事をしている。ロンドン訪問以来、つれあいに連れられファミリーセールなぞに足を運び、普段はスーツを着ているにも関わらず、イギリスのメーカーJOHN SMEDLEYのセーターをみちみちと買い足してきた。セルジオ・マルキオンネのように、いつの日かセーターを取っ替え引っ替え着こなして、それがトレードマークになることを思い描いてのことだった。
留意すべきこと
濃いネイビーとか、濃いチャコールグレーとか、黒とか、面倒臭さからついついオーソドックスで地味な定番色を選んでしまわないか?しかし、地味な色ばかりだと落ち着き過ぎてしまう。それに比して、あくまでオーソドックスな型ではあるが、発色の良いものを身に纏うと気分も華やぐ。不相応に「若づくり」してはいけないけれど、後期中齢者は綺麗な色のものを着用するべきだ。だから、目の覚めるような青や、恥ずかしがらずに真っ赤とか、実際に出社したら歓声があがったシトロン、明るいグリーンなどを好んで着ている。ただし、やり過ぎると林家ペーになってしまうから注意が必要だ。なりたいというのなら止めはしないが…。
今年も呼んでもらえたファミリーセール、グレーの水玉のマフラーをとてもお得に手に入れた。そう、松田優作を気取って言ってみたいんだ。ああ、もうすぐ隠居の身。自由でいたいんだよ。