隠居たるもの、些細な違いに愉悦を見る。いかにもという梅雨の白馬である。「いかにも」とはどういうことかというと、「連日しとしと雨が降る」ということである。テレビから流れる天気予報をなんの気なしに見ていても「大雨に対する備えを」と警告されることがもはや日常の光景だ。梅雨に対し私たちはどこかで「連日しとしと雨が降る」というイメージをいまだに抱くが、気候変動の結果、実態はすでに「連日どこかで線状降水帯が発生する」に移行しているのではあるまいか。かろうじて今年の白馬は連日しとしとと雨が降り、それを糧に草木が好き放題に荒々しく伸びる。夏を迎える前にしっかりと庭に手を入れておくこと、それが私たち夫婦の今滞在の主眼である。そしてもうひとつ、重大な任務が私には課せられている。レコードプレイヤーのカートリッジ交換だ。
レコード針の平均寿命
白馬の散種荘にはテレビがない。ここでは見る気にならないのだからとりたてて困ったこともない。必要があるときはパソコンでNHK+やTverを利用すれば済む。だからなんとはなしにテレビがついていることもない。代わりに流れているのは音楽である、それもレコードで。散種荘ができあがったのは2020年9月であるが、散種荘で使うためにとTechnicsのレコードプレイヤーを購入したのは、フライングすること1年、前年の9月であった。ということは4年と9ヶ月ほど使い続けているわけだ。気づいてみると購入してからレコード針を交換していない。おおむね先っちょにダイヤモンドが使用されているとはいえレコード針は消耗品で、摩耗したまま使用すると音の劣化に直結する。思い立ってざっと計算してみる。12ヶ月 X 4年=57ヶ月+9ヶ月=66ヶ月、1ヶ月あたりの白馬滞在を10日とおしなべて10日 X 66ヶ月=660日、少なく見積もっても1日あたりレコードを聴く時間を4時間とすると4時間 X 660日=合計で2,640時間。推量による大雑把な計算であるから正確なところはわからない。あらためてレコード針の寿命を調べてみると「一般的におよそ150~200時間といわれています」…。
“憧れ”のMCカートリッジ
由々しき事態である。「150~200時間」というのが交換を促したい業界の大げさなプロバガンダだとしても、「超過」のレベルがあまりにも甚だしく見過ごすわけにいかない。インターネットを開いて大慌てで交換針を探す。そこで「はて?」と首を捻る。レコードプレイヤーというのは、ボディ、円盤を回すターンテーブル、レコードに針を落とすアーム、この3つで構成されている。そしてアームの先にはヘッドシェルを介してカートリッジという小さな機器が取りつけられていて、その先にようやく針がついている。だから交換する針を探すにはそれをつけるべきカートリッジを確かめることが肝要となる。そこで「ちょっと待てよ」と顧みたのだ。そもそもプレイヤーというのはレコードを一定のスピードで安定的に回すための機械である。結局のところ音の良し悪しに影響を及ぼすのは、音を拾って解釈するこの小さなカートリッジなのだ。
Technicsのレコードプレイヤーを購入した際、オルトフォンというデンマークのメーカーのMM型カートリッジが針つきで付属していたのだが(オルトフォンはカートリッジの世界的有名メーカーではある)、調べてみたらこれがそれほどのスペックを有しているわけではなかった(考えてみればいわば「オマケ」でしかない付属品にハイスペックなものを用意するはずもない。すぐ聴けるようにとりあえず用意しておくけれど必要とあらば自分で調達しろ、そういうことだ)。購入時にはそこまで気が回らなかったものの、ことここに至って避けて通るわけにもいくまい。妄想は膨らむ。いっそのこと“憧れ”のMC型に手を出してカートリッジごと交換するというのはどうだろう。
MM?MC?はて?
「カートリッジをMC型に新調しようと思ってさ、DENONのDL–103はどうかな」「え?まだ売ってたの?歴史的名機じゃん。でもMC型カートリッジ、再生できるんだっけ?」同好の士であるハーモニカのT師匠に宴席を共にしたおり相談してみた。そもそも「何を言っているのか皆目わからない」という方々がほとんどであろう。別に聞きたいとも思っておられないことを承知で説明すると、まずカートリッジにはMMとMCという型がある。MM型はムービング・マグネット(Moving Magnet)の略で、カートリッジ内部に差し込まれた磁石が振動を受けて動くことで発電し、音溝の振幅を電気信号に変える。それに対してMC型はムービング・コイル(Moving Coil)の略、カートリッジ内部に差し込まれたコイルが振動を受けて動くことで発電し、音溝の振幅を電気信号に変えている。(実のところどういうことか、私もよくはわからないんだけど、笑。)一般的にMC型の方が質的にも繊細で情報豊かな音が出るとされているが、その分出力が弱く、再生するためには「ヘッドアンプ」や「昇圧トランス」などの機器をはさみ電圧を高める必要がある。それゆえ“憧れ”てはいてもこれまで手を出せずにいたのだ。
「ふふふ、散種荘に導入しているDENONのプリメインアンプPMA–2500NEはそもそもMM / MCの切り替えができることを思い出したのさ。MCを選択した際に電圧を高める機能を最初からつけているんだね。だからヘッドアンプや昇圧トランスがなくても大丈夫。それにDENON同士だからカートリッジとの相性に問題もあるまい」コスト度外視でユーザー本位に作ってしまったこのアンプ、あっという間もなくすでに生産中止となっている。T師匠は「これまでのカートリッジもその気になったときすぐに使えるよう、ヘッドシェルを追加購入しとくといいよ」とアドバイスしてくれた。
アナログは調子が出るまでに時間がかかる
2024年6月28日、満を持してカートリッジ交換に臨む。それぞれのサイズを勘案し、これまでのヘッドシェルに新しいMC型カートリッジを、追加したオーディオテクニカのヘッドシェルに従前からのMM型カートリッジを取りつける。“憧れ”のMC型カートリッジでレコードを回す。デジタル機器と違ってアナログ機器っていうのは調子が出るまでに相応の時間がかかる。しかし血が通ってスムーズに発電できるようになってからというもの想像以上にくっきり繊細な音を奏で出す。すぐそこで演奏されているようだ。私の生まれ年1964年に発表されたロングセラーDL–103、ジャンルの選り好みもせずに美しい音を鳴らす。
4万円ほどの投資でここまで音が見違えるのだから御の字である。次の機会に向けてちょっとしたMM型カートリッジを探し始めている(まだつれあいには内緒だけど)。「迫力」という点ではMM型に軍配が上がるからTPOに応じてふたつの型を使い分けるのだ。妄想は膨らむ。ああ、もうすぐ隠居の身。しとしとと雨が降るならば家に入って音楽を聴く。