隠居たるもの、チューンナップを欠かさない。散種荘から自転車で出かけるとなると、決まって帰りは上り坂、否応なくペダルを2kmほど踏み続ける羽目になる。しかし「人間の可能性」というのは馬鹿にならないもので、初老にさしかかっているとはいえ性懲りもなくぎっくりばったりやっているうちに、身体がどうやら「ヒルクライム」に慣れてくる。すると当然に自転車にまたがる機会も増える。そしてハタと気がついた。いくらか長い時間ハンドルを握っていると、手のひらが右も左も必ず「痺れる」のだ。こいつはハンドルまわりをいじった方がいい。小谷ファットバイクセンターの新井さんに連絡を入れると、2022年7月2日、彼は朝一番で散種荘に来てくれた。
手のひらが痺れるのはハンドルが遠いから
手のひらが痺れるのは、現在の体格・体力に比して「ハンドルが遠い」からに違いない。ハンドルが遠いと、腕はおおむね伸びきった状態で、加えて必要以上に姿勢が前傾となるから、グリップを握る手のひらに過度な荷重がかかる。その結果、鬱積した血流が「痺れ」となって悲鳴をあげる。影響はこれだけではない。「必要以上に姿勢が前傾」なため、前方を見やるべく常に不自然な角度を強いられ首もこる。自転車に乗るたび痺れたりこったりしていたんじゃそのうち億劫になるのは必定だ。昨年の春に私の愛車キャノンデール バッドボーイ2007年モデルをオーバーホールしてくれた、小谷ファットバイクセンターの新井さんに「もとから短かった腕と今の体力からするとハンドルが遠いのかもしれない。ステムを替えた方がいいのかな?相談に乗ってほしい」と連絡を入れた。自転車への変態的愛着ゆえに、「その楽しさを伝導するため」拠点とする小谷村と、隣接する白馬村ならどこにでも彼は車に工具を積んでやって来る。
はたして「ステム」とは?
自転車の本体(フレーム)とハンドルを連結する部品のことだ。ママチャリやコンパクトにまとまる折りたたみ自転車に使われることは少ないが、スポーツ自転車には必ず採用されている。ステムが長いほどハンドルは遠くなり、短いほど上体に近づく。そして角度のないフラットなものほど姿勢は前傾になり、上向きに角度のついたものほどテンションは緩む。現状の愛車にまたがった私の姿勢を見て、新井さんは「うん、たしかにステムを替えた方が良さそうですね」と確認する。彼はざっくりした私のメール文面から状況を察し、店舗に置いてある在庫をいくつか持参していた。今より2cm短く、10度ほど角度が上向きのものを選びそれに替えてもらうことにした。上体に無駄な力が入らなくなって「おお、すっごく楽だよ!」と喜ぶ私に、彼の「自転車への変態的愛着」が刺激される。「ふふ、ハンドル自体の角度も確かめてみましょうか。」
ハンドルまわりのセッティングを一新する
私の愛車のハンドルは真っ直ぐではなく真ん中にかけて少しくぼんだ形をしている。「だからこのハンドルを前に倒すか後ろに倒すかによっても上体との距離や角度を微妙に調節できるんです。決まったことなんか実はない、自分がいちばん運転しやすいように設定すればいいし、それができるのが自転車です。どうです?前に倒した方がいい?あ、手首の角度を見ると少し後ろに倒したこれくらいがいいんじゃないかな?」合わせて左右のブレーキレバーの位置をハンドルの真ん中に少し寄せつつ上向きにし、両手の中指に端が自然に引っかかるようにしてもらう。前3段、後ろ8段のギアを変える変速レバーの位置も細かく調整してもらった。これでハンドルまわりがオーダーメードに一新された。「さあ、ひとまわり乗ってきてください!」と新井さんがニッコリと私に笑いかける。
つれあいがスカートから膝丈のパンツに穿き替える
気がつくとスカート姿だったつれあいがいつの間にか膝丈のパンツに穿き替えている。「せっかく出張してきてくれるんだから、あなたの自転車も見てもらったら?」と事前に声をかけた際には「私はいいわ」と面倒臭そうにしていたくせに、実演を前に心変わりして「時間が大丈夫なら私のも見てくれる?」とちゃっかり頼んでいる。そこはさすが新井さん。「何があってもいいように、実は午前中いっぱい時間をとっているんです。自分の身体に合った自転車に乗るのはなんてったって楽しいですからね」。「自転車への変態的愛着」が半端ではない。彼はつれあいの話を聞きながら、水平器を持ち出してサドルの角度と位置を調べ始めた。
私がひとまわりと軽いヒルクライムの「試乗」を笑わずにいられないまま終えて帰ると、つれあいの愛車はブレーキレバーと変速レバーのセッティングを抜本的に見直されているところだった。彼の予測通り、作業はしっかり午前中いっぱいかかった。そして恐縮気味に「ええと…」と請求されたのは8,860円。内訳はというと、交換したステムの代金2,860円と、3,000円x2台のセッティング料金6,000円。恐縮するのはまったくもってこちらだ。頼んでもいないのに、2台のチェーンに油をくれ、4本のタイヤをチェックし空気を入れて、彼は去っていった。
POCのサイクルヘルメット
スポーツヘルメットといえばスウェーデンのPOC(ポック)だ。アルペンスキー選手がかぶっているのもほとんどPOCだし、私たちがそろえたスノーボード用ヘルメットもそうだ。シンプルなデザインがかえってスポーティーでカッコいい。だからサイクルヘルメットもそうしたかったのだけれど、POCは前後に細長い欧米人の頭形に合わせたサイクルヘルメットしか作ってくれなかった。だから日本メーカーのものに甘んじていたのだが、どうしたものか日本のものは、レース感たっぷりにピカピカしていたり、正反対にオシャレが過ぎたり、はたまた地方の中学生の登校用だったり、普段着で自転車にまたがる私たちの好みとは異なりどこか気恥ずかしい。しかし近頃、POCはまったく頭の形が異なる私たちに向けたアジアンフィットモデルを製造し始めた。すぐ海の向こうの大国が購買力を高めたからだろう。馴染みの北欧系アウトドアショップ フルマークス白馬店で試すととても具合がいい。愛車の調整に先立つ6月13日のこと、これまでのものはそろそろ買い替え時になっていたし、割引してもらって昨年モデルを購入していた。
これで準備万端整った。初老にさしかかっていようがいまいが、この夏はペダルを踏む。ああ、もうすぐ隠居の身。どんとこい、「ヒルクライム」。