隠居たるもの、一年越しの宿願を果たす。2024年7月27日、私たち夫婦はこの夏初めての来客を散種荘に迎えた。直前まで「なにごともなく今度こそ!」とつれあいがハラハラするものだから、なんとはなし私もソワソワと落ち着かない。やって来るのはつれあいの古くからの友だちで、祈るような心持ちになるには理由がある。本来であれば、この友だちの散種荘初来訪はちょうど1年前に実現されているはずだった。白馬までの特急券も準備万端とうに予約を済ませていたし、誰もがワクワクと楽しみにしていた。なのに急も急、来訪日の前日にこちらから「申し訳ない」と平身低頭お断りせざるを得なくなる。白馬診療所で、つれあいが新型コロナウィルス陽性と診断されたからだ。
この一年の紆余曲折
下の娘が大学を卒業し就職して一人暮らしを始めてから一年が過ぎた。これまでに何度か散種荘を訪れている、若い頃に同じショップで働く仲間であった他二人の友だちとともに、彼女は初めて白馬に遊びに来ることになっていた。もろもろ慰労を兼ねて二泊三日、涼しいところで楽しくワイワイやろうと5月から盛り上がっていた。なのに…。新型コロナウィルス感染症はすでに5類に移行していたが、暑くなるにしたがい閉め切った室内でエアコンに浸りがちとなる季節に合わせ、またもや流行っていると聞き及んではいたのだ。「ああ、油断した…」と後悔しても後の祭り。それぞれにご高齢の親御さんと同居していたりする彼女たちは、もちろん「仕方ないよ、お大事に」と私たちを気遣ってくれた。検査では陰性と診断されていた私も、結局は後に「喉の痛み等の症状から察すると、あなたも感染していましたね。PCR検査に陰性で出ることは往々にしてあるんです」と主治医に指摘される。
幸い重症化することもなかったから、近々での「リスケ」を打診した。それぞれの予定をすり合わせているうち、また一人、友だちが新型コロナに罹患する。そうこうするうちに、初来訪が期待された肝心の友だちも罹患する。後遺症とまでは言わないまでも予後がつらかったとも聞く。なので秋口に計画された「リスケ」は、これまでと同じく二人組での来訪に甘んじた。となるとこちらはどうにも心残りが晴れない。せめてもと冬に東京は深川の我が庵でおでんパーティーを催し誘ったところ、肝心の彼女は「実はついこの間にお父さんが亡くなって、看取ったりお葬式を出したりですっかり疲れているし、気落ちしているお母さんを一人で放っておくのもちょっと…」とのこと。なかなかうまくいかなかったのである。
母と娘の一年越しのリベンジ
その彼女が、満を持して、ようやくにして散種荘を訪れる。登場人物すべての予定をすり合わせようとすればあらためて難しくなるから、彼女はタッグパートナーに下の娘を指名する。お母さんと犬の面倒を見る留守番は上の息子に託して。そういえば彼女たち家族がその頃に暮らしていた海辺の小さな部屋に遊びに行った四半世紀前のこと、まだ幼かったこの子がどういうわけかつれあいに好感を抱き、私たちが帰ろうとすると「かわいいおともだち、もっと遊ぼうよ」とつれあいの袖を引いて、突如「恋がたき」として私の前に立ちはだかった。「そんなことがあったんだぜ?」と今さらからかったところで彼を困らせるだけだろうが、つれあいはまんざらでもない顔をするに違いない。このとき、下の娘はまだお腹の中だった。
ao LAKESIDE CAFE:https://ao-lakeside.com
今や「涼しさ」は最上の「娯楽」
青木湖の湖畔に新しくできたカフェは大変な混雑だった。ゴンドラとリフトを乗り継いで八方尾根を登り、近隣の温泉にいっしょに出向き、酒を酌み交わしながらウッドデッキで炭火焼きをつつき、裏の平川でしばし冷水に足をひたし、母娘滞在最後の食事と物見遊山を兼ねてドライブがてら訪れてみたのだ。神奈川の実家から離れて一人暮らしを始めた娘の部屋は、私たち夫婦の東京の住まいと同一沿線にある。だからこの子が社会人になって早々、心配する母が「なにかあったらこの人たちを頼りなさい」と我が庵に連れてきた。娘は娘で「いま川向こうにいるんですけど」と集合住宅に面した小名木川の向こう岸から電話してきて、突然に一人で遊びにきたこともある。もはや可愛い親戚の娘みたいなものだ。母と娘はことあるごとに「涼しい」と口にし、7月28日午後3時16分、中央線特急あずさ46号に乗って帰っていった。
入れ替わっておっとり刀の後輩
「ちょっとやそっとの酒を持参したんじゃ先輩を唸らせることはできませんからね」と大学時代の後輩がグレンリベット12年を土産に散種荘にやってきた。彼が「遊びに行っていいか」と打診してきたのはせいぜい1週間前のこと。母娘とぴったり入れ替わるタイミングであったから快く受け入れることにした。FBでつながっているからお互いの消息を知ってはいたものの、ここ数年で顔を合わせたのはすれ違うような二度のみで、膝つきあわせてじっくり話すとなると35年ぶりくらいになる。彼には山行をともにするチームがあって、本来はその仲間たちと白馬岳に登る計画を立てていたのだが、「体力的に無理」と判断、仲間たちを標高3,000mに送り出して栂池自然園を一人トレッキングし、それから我が家に遊びにきたのだった。生死を彷徨う大病から幸いなこと障害らしい障害も残らず生還したのだが、いかんせん体力が戻らないのだという。
でも酒は飲む(笑)。「やっぱり違うな」とか言って自分が土産に持ってきたグレンリベットをパカパカ飲む。あんな高級な酒をそんな風に飲んではいけない。しかし積もる35年の空隙を埋めるように勢いこんで話し飲んだから致し方ない。翌朝、ご飯を食べてすぐに後輩は散種荘を後にした。下山してくる仲間たちと合流するのだそうだ。「また来ていいか」と尋ねるから「もちろんだ」と答える。後輩は「散種荘」の由来が気になるようだ。フランスの哲学者ジャック・デリダの著書からとってはいるのだが、そこに付与した意味合いもある。私たちはあちこちから何かしらを様々と寄せ集めては、「種」らしきものをこしらえて周囲に散らす。散らされた「種」は、各々の場で各々独自の「芽」を出し、そして「花」を咲かせるかもしれない。どんな「芽」を出し、どんな「花」を咲かせるか、それは各々次第でかまわない。「こうであれ」と勝手に決めつけて、「種をまく」と偉ぶるのは性に合わない。
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私が「どんな先輩であったか」をつれあいに説明するにあたり、後輩はあろうことか「任侠の人」という表現を使った。「え⁉︎」と目を見開くつれあいに、「いや、もちろんヤクザということではなくて、義理人情というか…」と言い訳をする。「当たり前じゃないか」と思う反面、「しかし上手いことを言う」とも思う。多分そんなもんだよ。高倉健が亡くなったとき、代表作とされた作品にまったく納得がいかなかった。私が考える彼のまごうことなき代表作は、東京は深川を舞台にした「昭和残侠伝 死んで貰います」である。新たな散種荘のキャッチフレーズが頭に浮かぶ。ああ、もうすぐ隠居の身。「昭和残侠伝 涼んで貰います」。