隠居たるもの、暮れのいつものご挨拶。幼少のみぎりに慣れ親しんだ、日清サラダ油セットをお歳暮に勧めるテレビCMの一節だ。それが唐突に耳に浮かんだのは、週末に客人を深川の庵に迎えるため、おでんダネを買い求めようといつものように日本橋の神茂に出向いたときのことだった。普段に比べて店内にずいぶんと客が多い。古くそして三越本店のお膝元という街だから、多くはご高齢でどことなく品のいい方々で、買い物のペースもゆったりだ。私たち夫婦に順番が回ってくるのはもう少し先になりそうなので、注文のあらましを構想しようと陳列棚を端から眺める。そこで初めて「え?思ったように調達ができるだろうか…」と不安を抱く。まだ正午を回ったばかりだというのにたいそう品薄になっていたのだ。いったい何が起きているのかと周囲を見回してみると、ご高齢の先客方はみなさん「送り状」を手にされている。ははあ、特別に懇意な方々に贈る「暮れのいつものご挨拶」というわけだ。創業元禄元年、西暦にすれば1688年、老舗は年末年始に大忙しなのである。
2025年12月7日、この冬お初のおでんパーティー
「うわあ、このはんぺん、本当に違いますね」「ふふ、そうでしょう」ふわふわとした本寸法のはんぺんに会話が弾む。なんとか潤沢におでんダネも用意できた。私たち夫婦がこの神茂のおでんを愛し、冬となれば友だちを誘ってともに鍋を囲み、それをいわば季節の風物詩的イベントとしていることをこれまでにも何度かこのブログで紹介している。ではこの冬に招待したゲストは誰であろう。私の出身大学出身学部の教授夫妻である。40年ほど前の数年間、私は都の西北にある大学の文学部に通っていた。そこは長らく昼間の第一文学部と夜間の第二文学部それに大学院文学研究科という体制でキャンパスを構成していた。その2学部・1研究科が2004年に「文学学術院」という組織に統合され、さらに2007年には夜間の第二文学部をなくし、文化構想学部・文学部という二つの学部に再編された。だから第一文学部の卒業生である私にとって、文化構想学部で教鞭をとる客人は出身学部の教授ということになる。

2年と少し前になろうか、彼は私が関わる同窓会に来賓として現れた。10歳ほど年の差があるのだが、お互い酒飲みどうし、すっかり意気投合し、図々しく研究室に遊びに行くまでになり、すぐ翌年に彼がヨーロッパへ在外研究に出向いたサバティカルイヤーをはさみつつも、以来ずっと懇意にさせてもらっている。先の初夏に「今度はお互いに夫婦づれで一席を」なんて話になっていたもののなかなか機会が見当たらず、そうこうするうち「そろそろ神茂の季節だけれども、この冬は誰に声をかけるね」という会話が私たちの口のはしに上る気温になり、そこではたと「そうだ!先生夫婦を誘ってみるのはどうだい?『お互いに夫婦づれで』なんて言うからには奥さんがそういうことを苦手にしているってぇこともあるまいし」と思いつき、誘ってみたら案の定、喜んで来てくださった、とまあこういうわけだ。奥様も気さくな方で、また教授とともに「見過ごされがちだけど見過ごしてはいけない物事について考え語り合う場」を形作る活動をしておられ、話は楽しく多岐に渡った。その間にワインが何本も空いた。翌朝は当然のこと頭が少し重かったのだけれど、それに反比例するかのように心持ちは軽やかだった。


メルシーはソウルフード
おでんパーティーの二日後、母校に足を運んだ。そいつが昼過ぎだったもんだから素通りするわけにはいかず、まず腹ごしらえにと立ち寄った。どこにかって?我らがメルシーにである。40年ほど前に大学に通っていた私たちからするとこのラーメンこそが「ソウルフード」(若い後輩たちからすると私たちの卒業後にできた何軒かの油そば屋がそれにあたるんだそうだが)、だから後継者とか人手の問題でいっとき休業したときにはハラハラしたもんだ。それがどうだ。とにかく男臭かったかつてからしたら考えられないことに、おそらくアルバイトではあろうが若い女性スタッフもいる。店を再開するにあたってラーメン一杯600円に値上げしたようだが(私が学生だったころは380円だった。そうだとしても今も充分に安い)、「塩味がちょうどいい。しばらく休んだおかげでいくらか美味しくなったんじゃないか?」とさえ思えて嬉しいかぎり。満足して店を出る。そして27号館つまりは小野記念講堂に向かう。その地下にあるギャラリーで、先生が学生たちと「分断をまたぐ展」を開催しているのだ。

「分断をまたぐ展」
彼のゼミは、「『分断』と『共生』をテーマに掲げ、国際関係や平和研究などの現代社会が抱える様々な課題を多角的に考察」するもので「法律や統計だけでは捉えきれない『文化的価値』や『人間の精神』に目を向け、人文学 x 社会学の視点から、国際社会への深い知見と理解を目指して活動して」いるのだそうだ。そして、そんな彼らが開催する「分断をまたぐ展」は、「我々の日常の中に無意識に根付いている境界線、すなわち“分断“を身近なものとして捉えようとする試み」なのだという(カッコ中は先生の告知文章から引用)。私が学生だった時分の授業といえば、古典もしくは同時代といっても30年前に発表されたような書籍を講読するものでしかなかったから(熱心に出席していたわけでもないのに分かったようなことを言っている)、「今どきはこんな授業風景なのね」と新鮮だった。

今から遡ることほぼ一世紀前に大日本帝国の植民地下で幼少期を送り、不本意ながら小学校を中途退学せざるを得なかった私の父親は、無学なくせになぜかニーチェのような考え方をする人だった。つまりは「国やら政治組織はたまた宗教団体なぞがいいように言うことをそのまま鵜呑みにしたらそのうち吠え面をかく」、今から思えばそれが人間一匹、どこにも頼らず生きて96歳で死んでいった彼の矜持だったのだろう。そんな父親の薫陶を受け、さながら生まれつきの「プロのマイノリティ」として、ある時は苦悩を抱えながらも60年を超え「はざま」で生きてきたすれっからしな私である、逐一読ませていただいた学生たちの語りに今さらながらハッとするものは正直なところなかった。しかしSNSに容易に付和雷同する昨今の風潮を省みるとき、こうしたことに敏感であろうと自身で正面から考える彼らの心根を頼もしく感じたのも紛うことなき事実ではある。また、白馬にも遊びに来た晴れ女な現役学生の後輩をはじめ、友だちを案内しともに来展する学生に多く接したのもなんとも微笑ましく嬉しいことではあった。

かつてここは学生会館だった
そこではたと想いを巡らす。大隈講堂から道をはさんで建つ27号館つまりは小野記念講堂であるが、私が通うころここに建っていたのは学生会館で、猥雑な雰囲気に満ち満ちていた。1980年代中ほどのまだ学生運動の残り香のようなものがあった時代、その建物は革マル派のいわゆる巣窟でもあった。21世紀に入ってすぐだったか、それを一掃するため大学側が取り壊しに着手したときの騒ぎはニュースとして報じられた。新しく綺麗なこの建物に集う学生たちはそのことを知るよしもないだろう。

エネルギッシュな研究者に知己を得たことで、通りすがるだけでなく、母校に今もこうして訪ねるあてがある。なんとも果報なことだ。物好きな先生にはどういうわけか私を研究のネタにしたいという野心もあるそうだ(笑)。どちらにしろ近いうちにまた一杯やりましょう。酒を酌み交わしつつああだこうだやりましょう。ああ、もうすぐ隠居の身。「集り散じて 人は変れど 仰ぐは同じき 理想の光」。
