隠居たるもの、思い至って顔色を失う。この夏は姪孫たちとずいぶん遊んだ。年嵩が5歳だからこちらが身をかがめることも多く、そんな瞬間を切り取った、なんとも微笑ましい写真もたくさん残してもらった。そして、私はそれらの写真に共通するある「異変」に気づき、目が釘づけとなり、やがて愕然とする。「ちょっと待て、前頭部が心もとないじゃないか…」。いつの間にこうなっていたのだろうか。「萎える毛根」…、いやいや、茶化してウケをとっている場合ではない。2023年9月22日、葛飾区は青砥の美容院に出向き、ヤスから引き継いで私の散髪を担当する彼の長女に、「気がついたらどうにも薄くなってるんだ、どうしたらいい?トホホ、これじゃあ『萎える毛根』だよ」と単刀直入に相談を持ちかけたのだった。
「萎える毛根」と「燃える闘魂」
かつて私たちはアントニオ猪木に憧れ、「燃える闘魂」に血をたぎらせた。そして彼の称号ともいうべきそのキャッチフレーズは、私たちの記憶の奥深くに瞭然と刻み込まれ、いちいち説明をする必要のない「共通言語」として今も流通する。ゆえに、文言を置き換えた「活用形」が容易にジョークとして成立し私たちの会話を彩る。例えば先日、洗濯機を買い替える必要があって錦糸町の電気量販店に出向いたときのこと。配達の手配をする合間にも寸暇を惜しんでスタッフが入れ替わり立ち替わり、「オレオレ詐欺」もかくやとばかりにとっかえひっかえ何やら売り込んでくる。やんわりと断りつつ「まったく油断もスキもない、『燃える商魂』ってぇやつだ」などと耳打ちするとつれあいがクスッと笑う、とまあこんな具合だ。つまり、年端もゆかぬ子供のころから知るヤスの長女に、「頭髪が心もとなくなって取り乱している」と思われるのもシャクなので、「自身を客観視できる大人の余裕」を演出しようとの魂胆から、「萎える毛根」などとおどけて笑わせようと試みたわけだ。しかし彼女はキョトンとしたまま、「萎える毛根」ばかりが宙に浮く。考えてみればこの娘は30歳を少しまわったばかり、猪木が引退したのは25年前、もはや「燃える闘魂」を「共通言語」としてはいなかった。
「萎える毛根」を尻目に「萌える新芽」が顔を出す
深川の庵ではサンスベリアがよく育つ。サンスベリアとはリュウゼツラン科の常緑の植物で、地面から突き立つように葉っぱが生える。日当たりのいい乾燥した環境に育つ植物だから我が庵の窓辺の居心地がとにかくいいようで、しかも頻繁な水やりも必要ないから行ったり来たりで生活をする私たちにとっても心やすい。中でも稀少だといわれるサンスベリア・ロブスタ・ブルー(なんでも花言葉は「永久」と「不滅」、金運アップの開運植物だともいうのだが、残念ながらそれは「たぎる妄想」に他なるまい、笑)はスクスクと新しい葉をもたげ広げ続けてきた。なのに、ここしばらく新しい子がお目見えする気配がない。この8年の間にこんなことはなくハラハラと心配していた。それがどうだ、脇からタケノコのようにぴゅっと顔を出すものがある。地下茎で親株からつながる新芽だ。なんとも初々しい。だけれども、この「萌える新芽」が葉を広げ始めると間違いなく親株と干渉し合う。だから陽が落ちるのを待ってTOKYOBIKE TOKYOに足を運ぶ。新しい鉢を買い求めて株分けすることにしたのだ。
人の恋路を邪魔する奴は
おしゃれ自転車のtokyobikeが「街は楽しい」を伝える場として設けたショップ TOKYOBIKE TOKYOが近所にあって、そこにはThe Plant Society Tokyo Flagshipというオーストラリアの園芸店がパートナーとして入っている。お目当てはそこだ。どの鉢にするかはすぐに決まったのだけれど、なかなか精算を頼みづらい。混雑しているわけではない。私たち夫婦以外に店内にいるのは、店員さん一人とお客さん一人だけ。しかし若いこの二人の会話がどうやら「恋路」に向かっているようで割って入るのを躊躇させる。「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ」というではないか。仕方ないから初老にさしかかった夫婦、物色し続けるフリをして聞き耳を立てる。
そういえば、2週間ほど前にも似たようなことがあった。新宿から乗り込んだ全席指定席のあずさ11号、通路を挟んで隣の2席に大学生と思しきカップルが座っていた。男の子の方はどうやら東京工業大学に通っているらしい。なぜにわかったかというと、声を張り上げ喋り続けているからだ。普段の私なら身を乗り出し「少しは静かにしてみたらどうだ?」と睨みを利かせるところだが、「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ」なのである。この二人、まだ沈黙に耐えられるほどに親密さが進んでいない。そう分析した私たちは、楽しそうに囀る二人を見守ることにした。サンスベリア・ロブスタ・ブルーの「萌える新芽」、若者たちの「芽吹く恋路」、アラウンド還暦ともなると生命力が湧き立つこうした瞬間がなんとも微笑ましい。それにひきかえ「萎える毛根」、なんとも仕方なく、だけどもどうにか、いやはやなんとも、やれやれ…、思考は千々に乱れる。
ヤスの長女の一刀両断
「2年くらい前にシャンプーを変えたんでそのせいかとも思ってインターネットで調べてみたんだけど『抜け毛が減った』というのはあっても『増えた』という口コミはなかった。親父は90近くになるまでしっかりあったから気にもしていなかったんだけど、もっとも顕著に遺伝を確かめるべきは母方の男性親族なんだそうだ。お袋の弟である叔父さんは潔くさっぱりした頭だったし…」などと言い募る私を、ヤスの長女は一刀両断する。「男の人が年とともに薄くなるのはもう仕方ないよ。それにもともと髪が細めで柔らかいでしょ?髪自体が細くなってもくるのよね。はい、もっと短くしましょう。長い方が分け目がついたりして余計に目立つから。うん、そうそう、自分で気にするほど周りは気にしてないし」と問答無用にテキパキ散髪を始める。おじさんは少し感激する、「おいおい、なんともまあキッパリ意見するようになったじゃないか、そこいらへんでチョロチョロ遊んでたあの小娘がよぉ」と。
ということで、私がこれから長めの髪型にすることはもうないと思われる。帰路についた電車の中、駅から庵までの道すがら、男性の髪型につい目がいく。そんなつもりで見回したことがなかったのだけれど、世の男性というのはそこそこにみなさん堂々と薄い。彼女の一刀両断でお恥ずかしいかぎりの狼狽も消え去り覚悟が決まる。かくなる上はもっと白髪がちになればいい。そしたら坊主っくりにするやもしれぬ。ああ、もうすぐ隠居の身。ニヤリ「いぶし銀」と企む。