隠居たるもの、友だちの安否を気遣う救急車。2025年8月3日、時計で確認したわけではないから正確とはいえないが、うっすらと明るさが残っていたから午後6時30分を過ぎたあたりだったろうか、私は雷門通りに停められた救急車の後部ベンチに、48年来の友だちと並んで座っていた。目の前のストレッチャーにはもう一人の48年来の友だちが横たわっている。各扉を開けて風を通したまま、救急隊員が受け入れ先の病院を探している。幸いにも横たわる友だちの意識が徐々にはっきりしてきて、「かかりつけの病院があるのでそこはどうか」とか細い声で伝えている。「心臓を専門とするハートクリニックだから熱中症患者の入院は受け入れられず、落ち着いたら帰宅してもらうことになるがそれでもいいか」との返答に、「それでいいから」と友だちがうなずく。扉を閉めて救急車はサイレンを鳴らし、雷門の前を通って吾妻橋を渡り、水戸街道を走って葛飾に向かう。

浅草はインバウンドさんでごった返す
発端は白馬に遊びに来たハーモニカのT師匠のぼやきだった。「ふと焼肉を食べたくなることがたまにあるんだけど、この年になると店に行く機会がなかなか見出せない」と彼が言うから、「じゃあ同級生に呼びかけて連れだって焼肉屋に出かけてみるか?」とSNSでやり取りしてみたら、実際に「それなら行こう」という者が二人現れた。「ならば先の春に仕事を引退して家でゴロゴロしてるであろうあいつの様子も気になるから呼び出そう」ということになってもう一人を誘う。その結果この酷暑も鑑み「家でゴロゴロしているであろうあいつは上野より西となると皆目見当がつかなくなるので、野郎が乗り換えなし家から電車一本で来れるあたりで」ということになり、インバウンドさんでごった返す浅草の焼肉屋で集まることになったのである。

ここから東武線に乗って4駅目の町で育った私にとって、浅草は馴染みのある街だ。子どものころ買い物に連れ出されるといえば東武線の始発でもあり終着でもあった浅草駅の上にそのまま建つ松屋デパートだったし、父が営む小さな工場で働く若い衆に手をひかれ「男はつらいよ」や「トラック野郎」のロードショーを観に訪れたのも浅草六区だ。そして中高大と通学にあたり、階段を降りて地下鉄銀座線に乗り換えたのもここ浅草だった。しかしこの街は私が大学生だった40年ほど前にはすっかり廃れてしまい、浅草寺の初詣と三社祭、夏の花火とサンバカーニバル、季節の風物詩のようなもの以外に賑わいを取り戻すことはなかった。23年前に深川に引っ越した私が浅草に足を運ぶことも滅多になくなった。それがどうだ、今やあらゆる国の人々で眩暈がするほどにごった返し、二重三重にわさわさと人がたかっている雷門の周辺では、人力車を牽く若くて屈強な車夫たちがにこやかに客引きをしている。時代は変わったものだ。そんな時代の浮き沈みとも関係なく、焼肉 金楽はこの地で半世紀以上、繁盛し続けてきたのだ。
東京三連チャン
白馬から東京に戻ってきたその夜から実は三連チャンだった。還暦を過ぎた初老の身にはいささかこたえるものの、夏の間の東京滞在日数は小刻みで短く、亡き親父から「浮世の義理を欠いちゃあいけねえ」と叩き込まれて育ったからにはいかんとも仕方ない。


まずは8月1日、台風9号の影響でいくぶん涼しい東京に中央線特急あずさ38号で戻ってきた。新宿から総武線に乗って錦糸町、そのまま歩いて町中華の栄福へ、大学の先輩後輩で円卓を囲む。若い後輩が7月後半に司法試験を終えたのでその慰労会だった。この店の名物 炸裡背(ジリチ、豚肉の唐揚げ)に70代2人、60代2人、そして20代1人で舌づつみを打つ。翌2日、久しぶりに顔を合わせる近所の友だちとつれだって、ひと月ほど前に初めて足を運んだYAKITORI APOLLOを再訪する。今回は思い切って10本の「Lincoln Continental(リンカーン コンチネンタル)」にチャレンジしてみたが、寄る年波には抗えない、8本の「Cadillac(キャディラック)」が分相応と思い知る。そしてなんとか自重し飲み過ぎることもなく三連チャンの最終日を迎える。

まずは白身から
この日は私が幹事といったところだから、注文係もそのまま引き受ける。いい大人が最初っからカルビとかロースとか赤い肉を焼いちゃあいけない。まずはキムチの盛り合わせやナムルなどで野菜を摂り、そのあとにセンマイ刺などさっぱりした珍味、それからおもむろに白身、つまりホルモン、上ミノ、コブクロなどを焼く。初老ともなると一人3人前から4人前がいいところだから、5人で各部位合計15人前を少し超えるくらいで収まるよう注文に気を配る。目の前で炭が焚かれているので熱は感じるが、「あ、これうまいね」とか「孫がどうこう」とか「実は東京のマンションを売っちゃってさ、白馬を本宅とすることにしたんだよ」とか、他愛無いことも少々驚くことも含めて同級生の会話はいつもと同じ温度で進む。「お前はさ、普段からろくすっぽ食わねえし、酒が入ると余計にまるっきり食わねえし、それはいけないよ、ほら食え」などと隣に座る痩せっぽちの友だちをときおり気にしつつ。

そして赤身に移る
続いてカルビとハラミを注文する。ここのハラミは厚切りで絶品だ。ほおばった同級生たちも「うまい、うまい」というからハラミを追加。それでもパーパーと話すばかりのあいつはやっぱりろくに口にしない。「わかったよ、うるせえな」と返されるのを承知の上でしつこく「食え」とせっつく。そうこうするうち何度目だったろうか、箸を動かしてるかまた確かめようと首をひねってみるとあいつの様子がどうにもおかしい。「おい!どうした!」と声をかけても反応がない。うす開きとなっている瞼の裏で白目を剥き、座ったまま意識を失っていた。熱中症?一大事だ…

カリウム不足
店の人が用意してくれた氷袋で脇の下や首筋を冷やし、救急車を呼んでもらう。同じフロアのもっとも離れたテーブルで二回りくらい下と思しきカップルが食事をしておられたのだが、男性の方がどうやら救命関係の仕事をされているようで、緊急事態に割って入ってくれた。横向きに寝るよう抱くようにして身体を固定し気道を確保、私に脚を叩き刺激を与え続けるよう指示する一方で、彼自身も耳元で大きな声で呼びかける。救急車が到着する前になんとか意識が戻った。命の恩人だ。だからこそこの緊急事態に際して、「あの二人の飲食代は私たちが持たせてもらいますんで」とこっそりカップルの食事代を支払っていた友だちの冷静さを、私はここに声を大にして称賛しておきたい。


夜の堀切菖蒲園
病院に駆けつけてきた奥さんと少し話を交わしてから、二人の同級生は最寄りの堀切菖蒲園まで肩を並べて歩き、それぞれのホームに分かれて帰路に着いた。京成電鉄のここら辺の駅を見るとどうしても「男はつらいよ」の車 寅次郎になったような心持ちになる。寅さんになったついで、いくらか心配してるかと思い、明けた4日に金楽に電話してみた。「どうなりました?ああ、そうでしたか。大事にならなくて本当によかった…」と心から安堵してくれた。「必ずやお礼参りに行きますんで」と伝えると、電話口の女性は「無理せず涼しくなってからいらしてください」と笑った。いい店だ。だから、きちんと食べて、それまでに身体を整えておけよ。ああ、もうすぐ隠居の身。これからは小太りでいこうぜ。