隠居たるもの、密かに準備にとりかかる。そう、初老にさしかかった私たち夫婦は、「老後の嗜みに楽器のひとつも演奏できるようになりたい」という野望を密かに抱いていた。だからといって「実は若いころからずっとギターが弾けたらなぁと思っていてさ」といった類いの怨念を、都合よく今になって晴らそうというわけではない。そもそも59年に及ぶ人生のどこかで真剣に試みることがなかったのだ。結局、リスナーとして年季を積みはしても、「あんな風に弾いてみたい」というプレイヤー的「衝動」が、私に湧くことはなかったのである。ギターにかぎらずべースやドラム、ピアノについても同様で、すでに手指が思うように動くこともあるまいし、加えて一から「精進」なんて覚悟もないから、大それてどこぞの教室に通うなんて腹づもりもさらさら念頭にない。つまり私たち夫婦が望んでいるのは、ほんのささやかなスパイスなのだ。
友あり ほんのちょっとだけ遠方より来たる
とはいえ、例えば「俺たちの旅」のオメダ役でお馴染み、田中健のようにいきなりケーナを夕焼けに向かって吹くのはどうにも照れるし、漠然としたまま楽器選択が判然としない。そんなときに現れたのがT師匠(ここではそう呼ぶことにする)、2年半前の「友あり ほんのちょっとだけ遠方より来たる」という省察に登場した中学高校の同級生だ。在学中から親しかったわけではないのだが、パンデミックがすぐそこまで来ていることなど想像もつかなかった4年前の同窓会で顔を合わせてみるとウマが合う。以来、あらためて友だちになり直す。50代後半で「友だちになり直す」のであるから、当然のことこれまでの来し方を披露し合う。するとどうだ、T師匠は池袋にある大学でハーモニカサークルに所属し、ブルースハープ(穴が10個ほどの小ぶりなやつで、やはりブルース系はたまたシンガーソングライターがよく使う)に習熟しているというではないか。これだ。私はT師匠に即座に「ハーモニカを教えてほしい」と頼み込んだ。見返りは白馬 散種荘での接待だった。そしてようやく、新型コロナウイルス感染症が5類感染症に移行した直後の2023年5月14日、ブルースハープ一式を持参したT師匠が、満を持して白馬にやってきた。私たち夫婦の野望が密かに動き出す。
ハーモニカはじめました
「ハーモニカにはそれぞれにキーがある。同じキーというのも面白くないから、君たち夫婦には違うものを用意してきた。『お世話になります』料として進呈するよ。今、ハーモニカを作っているのは世界の中でもドイツと日本だけなんで、ドイツのHONNERのAのキーと、日本のTOMBOのCのキーのブルースハープを持ってきた。ハーモニカというのは中に金属プレートが入っていて、それが震えて鳴るという構造でできている。そこに異物が挟まるとちゃんとした音が出なくなるから、吹く前には必ずうがいをしなくちゃいけない。」持ち方やドレミなどひと通りのレクチャーを受けたあと、「とりあえず『アメージング・グレース』を音符通りに吹いてみよう」とT師匠が言う。
つれあいが口をすぼめながら持つCのTOMBOのハーモニカからは、思いのほかに「アメージング・グレース」っぽいメロディーがかもされる。しかし私のAのハーモニカからは一向にそう聴こえない。業を煮やして「ふん」とばかり適当にパープーと鳴らしてみる。すると「お、ボブ・ディラン?」風に聴こえるから不思議なものだ。「なかなかいいね。なにもプロになろうというんじゃないんだから、なんかレコードを回して、それに合わせて好きなように吹いてみよう。そもそもアメリカ発祥の楽器に厳密さなんか求めてもね。いいかげんでいいんだよ、なんだか楽しければさ」熟達者と初心者2人は、静かな山の中で周囲を気にすることもなく、しばらくパープーと鳴らし続けた。
もはや引っ込みがつかなくなる
T師匠との顛末を、報告がてらその日のうちに、初老フレンドリーなSNS、フェイスブックに「ハーモニカはじめました」とあげてみた。すると予期せぬ方角から即座に反響が届く。私の大学の同窓からで「投稿、見ました。お義父さんの遺品をもらってくれますか?」とのこと。ハーモニカ吹きだった奥さんのお父さんが大事に遺したセットを、どうしたものか判断しかねるまま手元に残していたのだろう。T師匠によると、キー違いを取りそろえた、立派かつ珍しいTOMBOの6本セットなのだという。同窓の心持ちもわかるし、この際だ、喜んで貰い受けることにした。そして「もはや引っ込みがつかないよ、ちゃんとやらないといけないやな」などとうそぶいたのも束の間、このセットが後日、大変な熱狂を巻き起こすのである。
大叔父が来たりてハモニカを吹く
「大失態だ…」風呂から上がるなりつれあいが苦々しい。この日は宇都宮に暮らすかわいい姪孫の5歳の誕生日だった。プレゼントを用意し贈り届けるのをうっかりしたのだ。今さらどうにもならないから、草間彌生の人形も含め、家中(このときは深川の庵に戻っていた)ありったけ可愛らしいものを集めて、この子たちが歌うかのような「ハッピーバースデー」動画をこしらえた。そしてラストに私がにぎやかしでハーモニカをパプポペピポパピ〜♪と鳴らす。つれあいがこの動画を送ったなり、すぐに宇都宮からFaceTime(テレビ電話ですな)がかかってくる。「もういちど吹いてみて!」5歳になった女児が興奮気味に叫んでいた。
熊本の義父母から、初夏恒例の見事なブランドメロン、肥後グリーンが深川の庵に届く。近くで暮らすメロン坊やんとこの分もいっしょだったから、取りに来させたついでに夕食をともにする。一段落したころ「おお、そうだ」と思いつき、ケースを開け同窓のお義父さんのハーモニカを取り出し鳴らしてみる。つれあいが言うには、その瞬間にメロン坊やの表情が一変し、目がキラキラ輝いたのだそうだ。3歳とほぼ9ヶ月の姪孫は、私にラップバトルを挑むがごとく、キー違いの6本すべてそれぞれを自由に吹きまくる。ああ、お義父さん、もしかしたらあなたは天才を野に放ったかもしれません…。それにしても、姪孫たちから「大叔父は魅惑的なハーモニカ吹き」と認識された今、ますます引っ込みがつかなくなった。
オーガスタ・パブロのごとく
今回のタイトルは、もちろん横溝正史「悪魔が来たりて笛を吹く」をもじったものだ。そして白馬は平川のほとりでハーモニカを吹く、6月13日に撮影したこのタイトル写真である。これは、ピアニカがパープーと牧歌的にリードするインストゥルメンタル楽曲で、宇宙的な名作を遺したレゲエ・ダブの巨匠、オーガスタ・パブロへのオマージュである。そうだ、思うほどに難しいことではないのかもしれない。ああ、もうすぐ隠居の身。大叔父が来たりてハモニカを吹く。