隠居たるもの、Watch your step、足元には気をつける。「ああ、八方池ね。ならば石がゴロゴロ転がる登山道だ、靴は固くてくるぶしまで守るやつじゃないとダメだな」私よりいくらか年上と見受けた、知識も豊富で熟達した店員さんの痛快な応対に惚れ惚れとする。2023年6月16日、所用あって午前早くから神保町に出かけていた。計らっていた通り、ちょうど昼という時分に用事は済み、するとなるとせっかくの神保町、「順路」をたどって定点観測に勤しむ。まずは共栄堂でスマトラカレー、聖橋まで上がってディスクユニオンで中古レコードを物色(この日は掘り出し物なし)、また下りてきて東京堂書店で何冊か書物を買い求め、そして最後に立ち寄った石井スポーツ登山本店、登山靴売り場でのことだった。「下調べ」のつもりがあれよあれよと購入するまでに至る。しかし「してやられた」という後悔なぞこれっぽっちも浮かばない。去来するのは爽快な充足感ばかりなのである。

もっぱら初夏にしておくべき数々の「手入れ」

全国小学生学力テスト読解記述問題採点アルバイトに勤しんだ5月が過ぎ、すでに梅雨入りが宣言された6月8日に白馬に入り、そして13日まで身を置いた。しばらく留守にしていた散種荘に到着するなり、庭が足の踏み場もないほどのお花畑になっていたことにびっくり仰天、雨降る合間にせっせと草むしりをして「プロムナード」をこしらえたり、夜が更けてももう薪ストーブを焚く必要がないことを確かめて、薪や道具類の片づけと煤に汚れたストーブ周りの掃除に汗を流し、アシナガバチの威嚇にもひるまず軒下3ヶ所に彼らが作りはじめた巣を小さなうちに退治もし、家屋のあちこちにうっすら黄色く積もったアカマツの花粉をケルヒャーで洗い流す。つまり、初夏にしておくべき「手入れ」に専心していたのである。その上で、雨の心配がない良き日を虎視眈々と探ってもいた。今年はじめて八方池に登ってみるために。

八方池はいまだ凍っている

しかしさすがは標高2060m。雨の心配がないと予報された6月10日、雲の切れ間からそこかしこに雪が顔を出す。八方池はいまだ凍っている。しかしながら湿気を帯びた梅雨の空気は生暖かく、上着を羽織る必要は感じない。「今年はどれくらいここを訪れようかね」、池を眺めながら持参したおにぎりを頬張る。リフトの乗降口である標高1830mの八方池山荘からここまで、「大した距離でもなく初心者でも大丈夫!」と喧伝されるが、道のりのほとんどがゴロゴロと大きな石が転がる急な山道だ。初老にさしかかった身にはそれ相応にきつい。これまでに凄まじい形相となった高齢の方と何度もすれ違ったことがあるし、その度「身体が3日くらいびくとも動かないだろうな」と心配になったものだ。疲れがたまった下りにこそ注意が必要で、踏ん張りがきかなくなった足をうっかり滑らすと、転倒・捻挫・ぎっくり腰に直結する。だから普通のスニーカーでは心もとない、なめてはいけないのだ。

無事に山を下り、近所のホテルに頼んで温泉につからせてもらう。早い時間の一番風呂だったもんで大きな湯船を独り占めできた。そして風呂上がりにビールを飲みながらウッドデッキに七輪を持ち出して、アスパラ、イカ、子持ちししゃも、厚切りベーコン、白馬ポークを炭で焼く。「しかし、なんとか今日いっぱいもってくれたよ。なんだか『これをもって私のお役目は終了です、さようなら』と礼儀正しくきちんと挨拶されたような心持ちさ」イカのエンペラを網の上で裏返しながら、そんなことをしみじみと語り合う。どういうことかというと、山を下りてアスファルトの道を歩きはじめた途端に、私が履いていた登山靴のソールが「もはやここまで…」とばかりにパカパカと剥がれはじめたのだ。あたかも石がゴロゴロする下り道で歯を食いしばり最後の力をふりしぼったかのようだった。「あれを履いて何年になるのかなぁ」とプレミアムモルツを飲みながら見当をつける。

NO SOLE, NO LIFE. 13年にわたって履いた登山靴

調べてみると、初めて履いたのがどうやら13年前、2010年7月30日 Fuji Rock Festivalだったようだ。デジタルカメラが普及してからやたらと写真を撮るようになったものだから、あの頃どんな格好をしていたか、どこに行ったか、誰と頻繁に遊んでいたか、そんなアーカイブがいつの間にかできている。たまにトレッキングに出かける程度で、さして必要とも思えない私が登山靴を所持するようになったのも、毎夏に参加していたFuji Rock Festivalのためだ。苗場の山の中で開催されるがゆえに、サマーフェスとはいえ頻繁に雨が、それも時にひどく雨が降る。ぬかるみの中を歩き回るため、雨がしみない素材で作られているGORE-TEXの登山靴やヤッケが必需品となっていた。

2010年7月30日 Fuji Rock Festival、フィールド・オブ・ヘブンにて

それにしてもほとほと物持ちがいいようだ。おろしたばかりの真新しい靴を履いた上の写真、それ以外に身につけているもの(折りたたみのアウトドアチェアも含む)のすべてが今もタンスに収まっているし、中でもズボンは算段したわけでもないのにこの登山靴最後のお勤め、今回の八方池にもつきあっている。いうなれば、いつしかFuji Rock Festivalからは「引退」したわけだけれども、夏になるにつれ山で遊ぶことが増えた今日、以前に買いそろえたあれこれが新たな活躍の場を得ている、とまあそういうわけだ。だから登山靴も近いうちに新調しなければならなかったのだ。

そして神保町の石井スポーツ登山本店で登山靴を新調する

知識豊富で熟達した石井スポーツの店員さんは一刀両断だ。「もう登ってみたの?八方池はどうだった?ああ、そうだよねぇ。まだ雪も多いし、池自体は凍ってるよなぁ。うん、本格的に山に登るわけじゃなくて、でもハイキングするといったらそのほとんどが八方池っていうんなら、こうした柔らかいのはやめた方がいいね」と、私が「あのあたりかなぁ」と考えていた(が店員さんに伝えたわけでもない)SALOMONやTHE NORTH FACEのいくつかの靴を手に取り、いとも簡単にグニャリと曲げてみせる。そして計測器を持ち出して私の足の形を確認し「左足の方が少し長いね。あれがいいかな、どの色にする?」と、AKUというイタリアのメーカーの靴を指差して答えを待つ。どうやら石井スポーツはこのメーカーと提携していて、日本からの要望を常日頃から詳細に伝えているらしい。そして日本の山に合わせた靴を、我々の足の形に合わせた木型を作った上で、イタリアで職人が製造しているそうだ。「ほら固さも充分だし、お客さんの足にピタッと合うと思うよ」、確かにピタリと合った。しかも候補にしていた品物よりも安い。餅は餅屋、迷うことなく買い求めることにした。容赦なくすっかりお花畑となった庭のあちこちで、バッタの幼虫が飛び跳ねていたことを思い出す。夏はもうすぐそこだ。ああ、もうすぐ隠居の身。新しい登山靴の用意はできている。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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