隠居たるもの、日々の散歩にからくも憩う。「よっぽどの用事がなければ会社に足を踏み入れてはならぬ、それぞれの居宅で仕事をせい」、いまだ隠居にたどり着いていない我が身の勤務先、小池百合子都知事に要請された行きがかりでかような趨向に舵を切ってから10日ほどになる2020年４月４日。この間によっぽどの用事が2度あってそれぞれに外出したが、それ以外は洗濯などに精を出しながらもたいがい書斎にいる。それゆえ、油断すると瞬く間に脚は萎える。せっかく動いてくれているものの機能をいたずらに低下させるのはしのびない、仕事を終えた夕刻から散歩に出る。折しも季節は春である。
この春の桜は長命だ
東京でソメイヨシノの開花宣言がなされたのは例年よりずっと早く3月14日、満開とされたのは22日だった。昨日は4月3日で開花宣言から計算するとなんと20日ということになる。私が暮らすこのあたりの桜は、気象庁のお達しに忖度することもなく自身のペースを保ってゆっくり今この時が満開という風情である。途中に何度も寒い日があったり雪だって降った、時宜を見計らってこらえてきたのだろう。
運河が交錯する街に住んでいて、その遊歩道が桜並木になっている。中目黒のように脚光を浴びておらず、例年であっても「花見」と称する乱痴気騒ぎをする輩が少ないから落ち着いて花を見上げることができる。今年はより一層しっとり静かに咲き誇っているかのようだ。桜の季節の散歩コースは、自ずとそれらをつたうように編成されるのだが、まずは我が庵の前を西に向けて流れる小名木川遊歩道を紹介しよう。徒歩通勤する際のコースにもなっているから、この春はつぼみの頃から日々に愛でていた。この運河沿いには相撲部屋がいくつかあり、水門の左脇すぐの5階建のビルも高田川部屋、晴れた日には白いまわしが干されている。
大横川の花筏にみる侘びとサビ
近所には墨田区から江東区を南北に流れるもうひとつの運河 大横川がある。密に植えられたここの桜並木がなんとも見事だ。俳句には花筏（はないかだ）という春の季語がある。川の水面を流れる桜の花びらを指したものだが、ここには盛者必衰の儚さも含意されているそうだ。大横川、その花筏がなんとも美しい。
桜に託されるとってつけた“勇ましい”心象を好ましく思わない。軍歌にも多用される「散り際」の華やかさを強調するやつだ。お願いしてでも避けて通りたい。穏やかな春の日、7月の東京オリンピックに合わせて護岸工事に勤しんでいた様を眺めながら、私はどちらかといえばひっそりおセンチに、“聖者必衰の儚さ”という哀愁に耽溺したい。
この桜吹雪、見覚えがねえとはいわさねえぞ
とどめは木場公園。公園であるから例年なら花見をする人々でごった返す。三連休の頃には幾らかなりとも体を寄せ合って花見をする愚か者たちも見かけたが、さすがにこのところの桜の下は静かなものだ。密着を避けマスクの奥で静かな笑みを浮かべながら、「桜を見る会」よろしく少人数でそぞろ歩く人たちを見かけるばかりだ。私とつれあいもご多分に漏れてはいない。今日もこれから木場公園にウォーキングに出向くところだ。近所に住むサッカー部の後輩と姪の夫婦、そして姪孫（彼らの息子）と落ち合って、ソーシャルディスタンスを保ちながら春の暖かさを満喫しようという算段なのである。
大横川のそばの新大橋通り沿いに、唐突に遠山金四郎と長谷川平蔵の屋敷跡が現れる。ドラマの通りというわけではなかろうが、彼らは実在した。その地は今、歯科医院になっている。もし遠山金四郎が常に庶民の側に立つドラマのままのヒーローで、奸計の果てに布製マスク2枚を無理やり押しつけようと悪だくみしている者を裁くことになって、「民が苦しむ江戸の夜に、しっかと咲いたこの遠山桜、よもや見覚えがねえとはいわさねえぞ！」とお白州で啖呵を切ったらどうなるだろう。「見覚えといったものは確かにございますが、目にした記憶はありません」平然とこんな風に答えるんだろうな、あの厚顔無恥なお方は…。
孔子はこう教えている。ああ、もうすぐ隠居の身。徳とは「仁・義・礼・智・信」。
