隠居たるもの、悲願を静かに噛み締める。男たちが、列をなして待ち構えていた。(いっておくが、今段は田口トモロヲ風で。)山の家「散種荘」は完成した。あらためて機能を説明し、注意を喚起する順番をそれぞれが待っている。例えばプロパンガス会社の担当がいた。開け放たれた玄関口から顔を出してこちらをうかがう女性も現れた。雑排水の浄化槽を管理する担当だという。すべては散種荘を作り上げたハウスメーカー ダイワハウスの現場監督が手配した。最後には彼自身も住宅機能の説明をする予定である。そこに私が手配した別荘地管理会社の担当も加わった。目まぐるしく説明を聞きながら次々と差し出される書類にサインし判をつく。悲願成就の感傷にひたる暇はそこになかった。開けっ放しの玄関から大きなオニヤンマがすうっと入ってきて、吹き抜けの窓の淵にとまった。遠い日を想起する。はじめは単なる思いつきだったのだ。

ずっと早く桜が咲いた2002年3月のことだった

私は求職中だった。なかなか仕事を見つけることができずもがいていた。展望が開けない中で、やっと面接をしてくれる人が現れた。その仕事はほぼ完全歩合の厳しいものだった。しかし、選り好みしている余裕などない。面接でその人は私に質問した。

「20年後に実現したいことは?」

「それが明確な人は、つらいことにも真正面から対処し乗り越えられるから」という。切羽詰まっていて来月のことすらわからない。「こちとら、そんな余裕などないんでござんす」正直そう思った。しかし、仕事を手に入れなければならない。しぼり出すように思いつき「山の家」と答えていた。スノーボードをするとはいえ、そんな大それたことなど考えたこともなかった。それが功を奏したとは思えないが、その会社は雇ってくれた。以来、私は「過酷な環境」に自分なりの角度で臨んで働いた。それが「山の家」のためであることはなかったが、あの時に「山の家」と答えたことを忘れたことはなかった。気がつけば18年が経っていた。面接をしてくれた人は「定年退職」する最後までずっと上司だった。

2017年2月17日、運命の出会いがあった

会社は支払うべき歩合を「退職金積立」という名目で「ピンハネ」した。定年にいたらない退職者には「自己都合」と難癖をつけて、積み立てた金額からその分をごっそり差し引いて振込んだ。大半の者が定年前に、それどころかほんの数年にもならずに会社を去った。厳しい環境で食いつなげなくなるからだ。そこにあるのは「気づかい」ではなく「規程」だった。たくさんの仲間を見送りながら、私はしぶとく年を重ね「定年退職」が近づいた。潤沢とまではいかないが「山の家」の原資らしきものが勝手にできあがった。しかし、2011年東日本大震災の影響、想定される候補地の特質と今後、自分たちのガラ、それらを考えあぐねて実現の展望を持つまでにはいたらない。そんな2017年2月17日金曜日のことだった。私たち夫婦は休みをとって白馬にスノーボードに出かけた。

この星の気候は変動していた。ウィンタースポーツシーズンの盛りに、あろうことか土砂降りの雨が降った。

ゲレンデに出ることは断念し、代わりに途中の街道沿いで目にした「みそら野管理事務所」をひやかし半分に訪れる。応対してくれたK主任はもともと千葉の本八幡の人だという。彼女の話はとても魅力的だった。望んでいたもののすべてがここにあった。私たちは心を決めた。

まだ四季があるうちに、ここで「山の家」を建てる。

Kさんは今年、社長になった。

2018年9月12日、山の家プロジェクトは始動した

ダイワハウスに勤める姪にパンフレットを持ってくるよう指示をした。2018年の9月初めにあらためて現地を訪れた私たちは、Kさんと相談しながら建設地の候補を絞っていた。9月12日、姪はパンフレットとともに、交際を始めたばかりの私のサッカー部後輩を我が庵に連れてきた。これで受け渡すべき後進の見当もついた。

私たちは「山の家プロジェクト」始動を宣言した。

それは、必然的に私の早期「定年退職」を意味した。10月12日、ダイワハウスとの打ち合わせも開始される。2019年3月には小さいながら建設地を確保、2020年9月上旬の完成を目指す体制ができあがった。東京には新型コロナ禍の影響も残る2020年5月半ば、感染が抑えられていた現地で伐採抜根工事が始まった。つれあいは「おそらく人生最後のなけなしの大散財」の支払いに四苦八苦した。

2020年9月29日、山の家「散種荘」は完成した

6月9日に初めて顔を合わせた長野県松本の現場監督は百戦錬磨の男だった。東京からの移動がままならない状況を理解しながら、しかし施主である私たちの確認を欲しがった。会社から渡された設計図面よりも施主の要望を優先した。「できる」とは簡単に言わずに黙って作り直した。だからこそ信頼した。その彼からの説明も聞いた。すべてが済んだ。

9月29日午後3時50分頃、鍵が渡された。

「さあ」、現場監督は記念の写真を撮るから外に出ろという。そのためだけに白馬まで来て、こっそり隠れていたスタッフがいた。彼によってテープカットの準備が整えられていた。照れ臭かった。そして、チームは解散した。あの時から18年半、20年を待たずして私たちは「山の家」を建てた。その晩、私たちはスノーピーク LAND STATION HAKUBA のレストラン「雪峰」で祝杯をあげた。この施設を内心「こけおどし」と思っていたから、存外の美味しさに驚いた。引き渡されただけの家にはまだ泊まれない。怒涛の荷物搬入はこれからだ。私たちはそのまま白馬に宿をとった。このところの荷造りですっかり痛められた腰は、白馬の温泉で癒えた。

ほど近いホテルのオーナーは認許した

散種荘からほど近い温泉ホテルは、かつて日帰り入浴客にも温泉を開放していた。チェックアウトの時に確かめると「今はしていない」という。新型コロナ禍である、万が一のことがあった場合、宿帳への記載もない不特定多数のお客さんを追えなくなるからだとオーナーは言った。私たちはご近所さんとなる事情を伝えた。

「ああ、もう知り合いだからかまわないよ」

オーナーは私たちの今後の入浴を快く容認した。私たちは、何かしらを様々と寄せ集めてはそこから「種」を散らす。散らされた「種」は、各々の場で各々の「芽」を出し「花」を咲かせる。どんな「芽」を出し、どんな「花」を咲かせるか、それは各々次第でいいだろう。何かしらを決めつけて「種をまく」と口にするのは僭越だ。ここで集おう。ここは「散種荘」なのだ。NHK「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」のエンディング、中島みゆき「ヘッドライト・テールライト」の歌詞にはこうある。ああ、もうすぐ隠居の身。旅はまだ終わらない。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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