隠居たるもの、ギターを持った渡り鳥に声かける。アコースティックギターを手に入れ稽古しているものの、昨今の世情から披露する場もなく気の毒にモヤモヤしている若い友人がいる。情をかけて「お兄さん、流しにおいでよ」と呼んだのはいいが、矢先にこちらがぎっくり腰という未曾有の危機にさいなまれ、その約束は「申し訳ない」と延期してもらった。先に延ばすほどにこちらの具合を不必要に深刻に勘繰るだろうし、そもそも我が庵でじっと待っていればいいのだから、その約束の日から数えて3日目、カイロプラクティックで揉みほぐしてもらった後のこと、「もう来てもらっても大丈夫、都合をつけなさいね」と彼に連絡を入れてみた。ギターを持った渡り鳥は、喜び勇んで次の日、早速2月23日の晩にワイン持参で見舞いがてらやって来た。
Gibsonのハミングバード
2月23日が新たに祝日となったのは去年のことだ。休みの日だからこそ、すぐに都合をつけられたのかもしれない。ギターを持った渡り鳥とは、白馬の散種荘にコンサートホールのようなフローリング材を提供してくれた、30代後半のあの多忙な若社長である。待ちきれなかったのか指定した時間の15分前に、「ご無沙汰してます」と照れ臭そうに現れた。「この前に会ったのは11月の半ばのことになるか?」と迎えた私は、酒を飲む前にさっとシャワーを済ませておこうとパンツ一丁だった。かつて私たちは1週間に1度は必ず、多い時は2度も3度も、申し合わせることもなく一緒に飲んでいた。知り合って以来、3ヶ月強も会わずにいたことなんてなかったんじゃなかろうか。「名器、Gibsonのハミングバード、買っちゃいました」若造のようにギターを背負った彼は嬉しそうである。「もう少しだけ待ちなさいね」私はそのままシャワーを浴びた。
3ヶ月のあれやこれ
これまでに4回もPCR検査をしたそうである。中小企業の社長というのは何でも屋さんであるから、お客さん、同業関係者、業者、そして従業員、常にテリトリーの違う様々な人と顔を合わせる。気をつけていても確かめるに越したことがない場面がどうしても出来(しゅったい)し、「経済を回せ」と言うわりに心配というだけでは当局は一向に検査してくれないから、安くはないお金を仕方なく自ら支払って確認してきたのだという。幸いなこと4回とも陰性で、遅くまでの会食がなくなった以外、仕事が減っていることもないそうだ。この空いた時間で「ギターを稽古したいなあ」と考え、とりあえずアコースティックギターを買い求めに出かけところ、そんなつもりではなかったのに、Radioheadのトム・ヨークも愛用するハミングバードを目にしたら矢も盾もたまらず、だからといって40万もするわかりやすく高級なモデルはさすがに気が引け、よってそんなに目立たない半額ほどのモデル購入にいたるわけだが、「やってしまった…」という言葉とは裏腹に、今はそこはかとない満足感に包まれている、つまりこういうことだった。和牛ステーキと海鮮料理で74,000円に及ぶ贈収賄がらみの違法な接待に費やしたわけではないし、一生懸命に仕事して自分で稼いだお金である、ハミングバードを巡るこの微妙な心の機微を誇らしく思ったらいい。
No Surprises
彼はRadioheadの「No Surprises」を演奏してみせた。ステージでこの曲を歌うトム・ヨークが肩にかけるのがGibsonのハミングバードだ。初心者のトンチンカンな音を勝手に想像していた私は少なからず驚いた。立派に「No Surprises」だった。楽器演奏を身につけることのなかった自身に置き換えて考えてはいけない。彼は学生の頃には弾いていたのだ。「でも合わせて歌うと奥さんが笑うんです」と家庭内の不満をここで吐露するから、どれどれとひとくさりやらせてみたが、結局は微笑ましく「やめておいたがよかろう」との結論に達する。それではなぜに「No Surprises」だったのかというと、20近く歳が離れた私たちが友人になるきっかけとなったのがこの曲だったからである。
今宵もWINE Cafeで
這ってでも帰れるWINE Cafe Bungoという店で、四六時中クダを巻いていた。残念なことに一昨年の秋、オーナーはその店を閉めてしまったのだが、そこのカウンターで彼を紹介された。店での居心地をより良くするため、自作の「コンピレーションミュージックCD」を何枚か持ち込んでいて流してもらうことがあった。「近所」だからといってまったくもって図々しい。オーナーは私がいない時にもそれらをかけることが多々あったようで、その中に入れた「No Surprises」が、音楽好きでRadiohead好きの彼の「社長に就任したばかりでどこか落ち着かなかった」心の琴線に触れ、私と会えるのを心待ちにしていたのだという。以来7年にもなろうか、フジロックやらライブハウスにいく度となく同行したり、私たちは「腐れ縁」のように仲良しなのである。私たちが行きつけの「スナック」としていた今はないその店は、私たちがカウンターに並ぶと「ロックスナック」と化した。そんなこんなが、彼の歌唱なし「No Surprises」にはこめられていたのである。
「腰が痛いおじさんはダメです」
つれあいが悦に入っている。ハミングバードを肩から下げさせてもらったのだ。「へー」とか言っている。なんだか悔しいから「私にも抱えさせてみろ」と水を向けると、「あ、腰の痛いおじさんはダメです」と言下に退けやがる。一応は見舞いなのだからして仕方あるまい…。こちとらブルースハーモニカからぼちぼちやってみるさ。春になって雪が溶けたら、君が卸したフローリング材のアフターフォローのために、ギターを抱えて散種荘に渡っていらっしゃい。今日は3人だけにしたけど、状況が許せば子供も連れてさ。また音楽の話をしよう。ああ、もうすぐ隠居の身。しかし社長、そいつは業務の一環だからな。