隠居たるもの、大きな湯船で身体を伸ばす。予期できるものならするっと回避すべく防御策を講じるところだが、ぼうっとした一瞬を抜け目なく見計らうぎっくり腰に「予期せず」見舞われてからそろそろ2週間、いまだしつこく奥の方が疼くとはいえ、ずいぶんと自由に身体は動くようになった。ここいらでスッキリやっつけちまいたいものと一計を案じ、ここ数日は湯治と洒落込んでいる。たっぷりの湯につかると、腰周りがじんわりほぐれるものだ。幸いなこと東京の「下町」と呼ばれるあたりに暮らしているがゆえ、銭湯は今もすぐ近くにある。
「あれ、どうしたんだい?」
3月1日月曜日の午後4時20分頃のこと、13番の下駄箱にスニーカーをしまっていると声をかけられた。振り向くと、同じ集合住宅に暮らす長老お二方が、紅潮した顔を並べてすぐ後ろに立っておられる。もちろん住まいにも風呂はあるのだが、お好きと見えてお二方とも日々にここ竹の湯に通っておられる。店の戸が開く3時30分を待って一番風呂につかってちょうど出てきたところ、そんな風情だった。「平日のこんな明るい時間に若輩者のお前がここで何してやがる」と不審に思われたに違いない。「ハハ、お恥ずかしいことに腰をやっちゃいましてね、大きな風呂で身体を伸ばそうと企んでやって来たという寸法です」と私が答え、「ああ、そうなのかい」としばし3人で風呂端会議に興じてから、「それじゃあ、ゆっくり入っていらっしゃい」と長老たちは集合住宅へと帰られた。はたからはお元気に見えるお二方、ともに素敵な奥方に先立たれておられる。
全身に和彫りのおじさんが隣に座る
一番風呂を楽しみにしているこうした80歳を過ぎた長老が竹の湯には多い。それが一段落する頃合いを見越して午後4時20分に出向いたのではあるが、脱衣所はまだまだかしましい。銭湯に行くのは一種レジャーのようなところがあるから、休日の早い時間はきまって混雑する。ひとっ風呂浴びた後のビールまでを計算してのことだろう。そして前述の通り、平日の一番風呂は長老たちでにぎわう。さらに午後5時を過ぎてくると、仕事を終えた職人風の方たちがそろってやって来る。この新型コロナ禍である、湯治するにしてもその間隙をぬってお客さんの少ない時間帯を見計らいたいのは人情だ。そこで導き出されたのが平日の午後4時20分というわけなのだが、しきりの向こうのご婦人方もにぎにぎしい。あと20分遅い午後4時40分が「最適解」だったのかもしれない。
両手首から両くるぶしにいたるまで、全身に鮮やかな刺青を彫り込んだおじさんが私のすぐ隣の洗い場に座を占めたとき、「なにも好んでここまで近距離に陣取ることもあるまい」と背中の鏡獅子を拝みつつよそへ場所を移した。しかし、そのおじさんがそうするのは縁起をかついで「自分はここ」って定位置を決めておられるからだろうし、私がそうするのは「怖いから」でも「腹を立てた」からでもなく「そういうことなら場所を譲ります」ということに他ならない。深川は古い下町だから、こうした方が地域にとけこんで今もいらっしゃる。このおじさんと笑い合っている方々だってたくさんいらっしゃる。それでは裸のままでもちろんマスクもつけずに談笑している人たちを目にして、「このご時世にどうしたことか」と自粛警察よろしく目くじらを立てる気になるかというと、ここにおいて私にそんなものは湧いてこない。
ささくれだった「冷たい社会」の中で
眉を顰めるような、やりたい放題の高齢者を巷に数多く見受けるが、それと違って「竹の湯」に集う長老たちは朗らかでいて同時に落ち着いている。新型コロナ禍、ほぼ一日家にいて、示し合わせたように一番風呂にやってきて、気晴らしに「風呂友」と慎ましく語り合う、そんなところなのだろう。家に帰ればまた1人なのかもしれないけれども、ここにいる限りにおいて彼らは孤独ではない。それを果たして責められようか、私はそう思うのである。新型コロナウイルスの感染拡大で孤独・孤立問題が深刻さを増す中、ようやく政府は内閣府に対策室を設置するという。しかし、3月3日水曜日の羽鳥慎一モーニングショーの中で、「日米英で実施された孤独に関する意識調査で『孤独は自己責任』と回答した人はイギリスで11%、アメリカで23%、日本で44%となっている」と紹介されていた。「孤独にいたったのはその人の自己責任で自業自得なのであるから、公的に支援する必要などない」ということらしい。なんともささくれだった「冷たい社会」である。ここ竹の湯は「不可侵の聖域」とならざるを得まい。
「しっかり腰を回して歩いてください」
「ちぢこまっていたところを伸ばしておきました。もちろん過度な筋トレとかダメですけど、もう少し動いた方がいいです。うん、近所を歩くのはいい。それも恐る恐る歩くのではなく、腕を振って腰を回して歩いた方が、そう、ウォーキングに近い感じで歩いた方が骨盤の周りがほぐれてより軽くなります」とコンドーくんは言っていた。3月2日の火曜日、風が吹き荒れひどい雨が降る日本橋で、再び彼に揉みほぐしてもらったのだ。一夜明けて晴れ渡ったひな祭りの3月3日、それに従い久しぶりに木場公園を一周ウォーキングしてみる。確かにその通りだった。そして午後4時40分、ダメ押しに小さな石鹸をカタカタ鳴らして「竹の湯」に足を運ぶ。刺青のおじさんは定位置で身体を洗っていた。浴場に置かれ湿気にやられているスピーカーから、半分割れたような音で昭和歌謡が流れる、それがここの名物なのだが、この日のハイライトは和田アキ子の「どしゃ降りの雨の中で」だった。脱衣所に流れるテレビでは「1都3県への緊急事態宣言2週間延長」をガースー総理が表明している。私の腰はもう大丈夫だろう。ああ、もうすぐ隠居の身。そして3月4日の今、白馬に向かう列車の中にいる。
参照:「日本橋のカイロプラクティックでギックリをときほぐす」https://inkyo-soon.com/chiropractic/