隠居たるもの、この道をゆけばどうなるものか。2022年10月1日、アントニオ猪木が死んだ。「物心つく」のが5歳くらいだとしたら、私に物心がつき始めたのは1969年ということになる。26歳のアントニオ猪木が、破産した東京プロレスから日本プロレスに復帰した時分だ。プロレスに熱狂する工場労働者たちに囲まれ、そのころに放送開始されたアニメ作品「タイガーマスク」の影響もあって、若々しいアントニオ猪木は私を魅了しそしてアイドルとなった。そこから私が大学に入学したばかりの1983年6月2日、蔵前国技館における第1回IWGP優勝決定戦でハルク・ホーガンに失神KOされるまで、それが彼の全盛期に違いない。となると幼稚園から小中高と、それすなわちそのまますっぽり私の「育ちざかり」に他ならない。だから私と同じ年恰好の者にとって、アントニオ猪木は格別な存在なのだ。
イノキ・ボンバイエ
秋だというのに10月1日の気温は高かった。所属する出身校の同窓会に寄り合いがあって、ジャケット着用にいささかの憂鬱を感じつつ準備に勤しんでいた午前中、中高の友人がFBに「猪木逝く」と一報を流す。難病の床にあることは知っていたから驚きはしなかったし、遅い午後からやるべきこともあるので特段に感慨も浮かばない。しかし午後2時半ころ大隈講堂の前を通るとひょっこりそれが顔を出す。「大学3年だったからあれは37年前か?猪木がここで講演をしたっけな」聴き終えた学生たちはみんな肩をいからせて(東映ヤクザ映画を観終えた客のように)「イノキ・ボンバイエ」を口ずさみながら講堂を後にしたものだ。あの頃、猪木と倍賞美津子がこの国で一番カッコイイ夫婦だと思っていた。「考えてみれば、昔日の千恵子と美津子の倍賞姉妹は、今のアリスとすずの広瀬姉妹みたいなものだな。まあ、どちらかといえば、千恵子がすずで、美津子がアリス、姉妹で逆のキャラクターだが」などと徒然なる追憶がポツポツと浮上する。
今夜、蔵前国技館で
アントニオ猪木が日本武道館でモハメド・アリと対戦した1976年、私は小学6年生だった。米国のゴールデンタイムに合わせて試合開始は午前11時だったと記憶する。土曜日とはいえ、週休2日なんて大それたことを想像したこともないあの当時、一般家庭にビデオデッキが普及するのもまだまだずっと先のこと、NET(現在のテレビ朝日)はこの「世紀の一戦」を生中継と夜の録画中継で同日に2度放送した。しかし生で観たい私は迷うことなく学校をズル休み。以降、中学生になって自分たちだけで観戦に行けるようになると、友だちと連れだって、近くの蔵前国技館で催される重要大会に頻繁に通うようになる。両国に国技館が新設され完成したのは1984年のことなので、全盛期にあったアントニオ猪木が活躍した国技館、それは両国から少し北、同じく隅田川沿いに位置する蔵前国技館だった。
国際プロレスが倒産して新日本プロレスに殴り込みをかけてきたラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇のはぐれ国際軍団 対アントニオ猪木、そんな3対1の変則マッチの果て、猪木が力尽きて最後の一人ラッシャー木村に敗北した夜、「猪木は負けねえよ…」とつぶやく「狂信者」でぎゅうぎゅうに溢れかえる都営浅草線 蔵前駅、狭い上り下りの両ホームから突如として大猪木コールが沸き起こる。興行後はいつもそんな感じになって危なかったから、私は浅草までひと駅歩くようになった。あれはタイガーマスク対ダイナマイト・キッド、藤波辰爾 対 長州力、アントニオ猪木 対マサ齋藤、信じがたいマッチメークのあの晩だったろうか。卍固めの興奮を冷ますようにゆっくりと東武線浅草駅まで歩いてみると、駅前に陣取る屋台でラーメンを啜っている知った顔がある。問題を起こして私たちが通っていた学校をやむなく退学し、他の高校に転入した友だちだった。「何やってんだよ!」と再会を祝しアリキックをかますと、彼は一眼レフカメラを誇示し「写真部に入ってさ、猪木を写してきたんだ」と答える。彼はその後プロのカメラマンとなり、私たちの交友は今も続いている。
一緒に観戦するはずだった友だちが一人、当日になってどうしても来れなくなったことがある。入場券(当時の入場券にはメイン選手の写真が刷られていた。無機質にプリントされたものに取って代わられるのはチケットぴあが幅を利かすようになってからだ。)は他の友だちがあずかって蔵前駅に持参した。なにぶんに高校生でダフ屋と交渉する勇気もまだなく、各々が携帯電話を持つようになるにはあと15年ほど、蔵前駅改札の公衆電話から心当たりの友だちの自宅に電話してみる。途中からになるので、確か半額で手を打ったと記憶している。しかしこれからやってくる友だちを誰が待つ?すでに集まっている我々は前座の藤原喜明やドン荒川の試合が観たい。結局「公衆電話にある電話帳のXXページに挟んでおくから」と伝え、みんなで一足先に国技館に入る。1時間ほどして彼が現れたときはほっとした。しかし考えてみれば、誰かが一部始終を見ていて盗んだところで、私たちの隣の席にしれっと座るわけにもいくまい。チケット自体をスマホにダウンロードする今日からしたらなんと牧歌的なことか。
迷わず行けよ、行けば分かるさ
当然のことだが、私は1998年の引退を目撃すべく東京ドームにも足を運んでいる。パンフレット類に食指を動かすことのない私が、この時だけは躊躇なく買い求めた。引退する師匠へのはなむけとばかり、当時44歳の藤波辰爾がセミファイナルのIWGP戦で佐々木健介をフォールしたあの見事なジャーマンスープレックスホールド、今でも目に浮かぶ。稀代のカリスマの死に際し、この引退興行時のマイクパフォーマンスが繰り返しテレビで放送される。「この道をゆけばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ 行けばわかるさ。」猪木によれば一休宗純の言葉ということだが、実のところ確定できてはいないそうだ。しかしこれが一休さんの言葉だとして、原文の末尾は「行けばわかる」で締められる。ここに「さ」の一字を付け加えるところが、さすがアントニオ猪木。まなじり決してしゃちこばってるばかりじゃあ何も始まらない、さあ軽やかにまずはやってみようぜ、東京ドームにはそんな風が吹いた。
翌10月2日、ひと月ほど前に急死された、猪木よりひとつ年上の先輩のお宅に弔問にうかがった。「先輩はもうここにはいらっしゃらないのか…」穏やかに笑う遺影に、にじむ涙を禁じえない。大変にお世話になった方だった。その夜、メロン坊やの家に集まって餃子をつついた。のんきな姪が、ニュースを見ながらあろうことか「ジャイアント猪木ってさぁ」と言い違える。三遊亭円楽の訃報もいっしょに放送されていたこともあって「落語の三遊亭一門みたいにジャイアント一門なんてのがあるのか?」などとみんなそろって大爆笑した。プロレスがスポーツなのかエンターテイメントなのか、そんなことはどうでもいい。私たちは幼少のみぎり、アントニオ猪木という強烈なエネルギーを浴びて育った。そういうことだ。ああ、もうすぐ隠居の身。迷わず行けよ 行けばわかるさ。