隠居たるもの、ふらりと今日も時間をつぶす。今さらではあるのだが、中島らもの「今夜、すべてのバーで」を読んだ。彼が亡くなったのは18年前の2004年で享年は52、面白い人だとは思っていたが生前に著作を手に取ったことはない。彼が活躍していた時分と、私がまるっきり本を読まなかった頃合い、その両者がほぼピッタリと重なっていたからだろう。1992年に吉川英治文学新人賞を受賞した今作、実体験をベースにしたアル中小説である。最近に文庫版が新装され、神保町の東京堂書店にいくらか目立つように陳列されていた。ふと興味を持って買い求め積読してあったものを、なぜか「東京に戻ったばかりだからこれを」と引っ張り出したのであった。

「中毒か否か」と問われれば

新装版が作られるにいたるには何らか時代背景らしきものがあったのだろうか。確かに「自己責任」ばかりが強調される今日はプレッシャーまみれ、度数を高めて「ストロング」を謳う廉価な缶酎ハイが発売されてからというもの、簡単に酔っぱらえるからと、それらを常用する若年の間でアル中が増えたとも聞く。幸いなこと今現在そうした環境に身を置いていない私であるが、はてさて「中毒か否か」と問われれば、おそらく「中毒」なのだろうと答える。だって毎晩毎晩、何かしら酒を飲んでいる。一年を通して飲まないのは人間ドックの前の日だけだし、その夜に「少しだけでも飲んじゃあいけねえのかな」と思いながら記載する人間ドック問診票の「酒量」欄は常に「適量」を超えている。しかし、この生と死のはざまで揺らぐアル中小説に引き込まれるうちに理解した。「アル中」かもしらんが、たぶん私は「依存症」にはならない。好きでうまいと思うから飲むのだし、過ぎてうまくなくなったらなんとか飲むのをやめられる、のべつまくなしに飲むこともない。酒飲みはすべからく、今作を前にして自身と酒との「距離感」を考えることだろう。

「俺はもう酒を飲まないことにしたから」と、友だちが家に残っていたものを進呈してくれた。夫婦でありがたく1週間ほどかけて飲み干した。

「一人で時間をつぶせる技術」

どうやら酒が強かったから、それを誇示するかのように若いころは馬鹿な飲み方もしたものだ。もちろん記憶が飛んじゃったことも何度もある。最初は「なんかとんでもないことをしでかしちゃいないだろうか…」と頭を抱えたものだが、年齢とともに記憶に支障をきたす頻度が上がるにつれ、「翌日になにひとつ苦情がこないということは、楽しい酔っぱらいだったに違いない」と自分勝手に開き直るようになる。しかしよっぽど心配になって、「お恥ずかしい話、記憶があまりはっきりしないのだが、昨晩の私は大丈夫だったろうか?」と席をともにした者に確かめ「いやあ、別にいつもと変わんなかったすけど?」との返答を受け安心したのもつかのま、もう一人の同席者に「はは、まったく…。ふたりとも記憶が怪しいほどにご機嫌でしたよ」と教示され大笑いしたこともあった。新型コロナ禍以降、記憶を飛ばすほどに飲むこともなくなった。

どちらにしろ私は「緊張したテンションのバランスをとるため」とか「うさを晴らすため」とか「リアリティから目を背けるため」に飲むことが滅多にないのだろう。だからドクターストップがかかったら考えるにしても、身体に留意はしつつ、これからも飲み続ける。「やってられないから」とひとりで痛飲し続け、あげくに「なぜ破滅を恐れながら結局は破滅を目指すのか…」という葛藤に引き裂かれたまま病院で過ごす主人公は作中でこんな独白をする。「『教養』のない人間には酒を飲むことくらいしか残されていない。」はて、中島らもはひそかに「教養」のある人だったし、この主人公だってどちらかといえば知性に溢れているのに…。独白はこう続く。「『教養』とは学歴のことではなく、『一人で時間をつぶせる技術』のことでもある。」

李禹煥回顧展/国立新美術館

昨夏、私たちは「つれあいが作る李禹煥(リ ウーファン)作品のような『蚊取り線香ホルダー』」とうそぶき、「いくつか試作された中の最高傑作は『石と針金でできた蚊取り線香ホルダーとその落灰を受ける石皿』。まるで『もの派』(1960年代末に始まり1970年代中期まで続いた日本の現代美術の大きな動向。石・木・紙・綿・鉄板・パラフィンといった〈もの〉を単体で、あるいは組み合わせて作品とする。それまでの日本の前衛美術の主流だった反芸術的傾向に反発し、ものへの還元から芸術の再創造を目指した)の巨匠 李禹煥(リ ウーファン)の作品を小さくちょびっとだけ彷彿させる乙な『モノ』だった。」などとつつましく悦に入ったものだった。その李禹煥の回顧展が乃木坂の国立新美術館で催されている。一昨日の2022年9月29日木曜日、「東京に戻ったからには」と東京メトロ半蔵門線と千代田線を乗り継ぎ、ウキウキと「時間をつぶす」ために乃木坂に足を運ぶ。

あれは2013年5月、直島の李禹煥美術館

瀬戸内に浮かぶ直島に、安藤忠雄建築の個人美術館ができたのは2010年、そして私が初めてそこを訪れたのは2013年5月、一見したところ穏やかな海に囲まれ静謐な空気を漂わせる李禹煥の作品、しかし一瞬の「点」や「線」そして「もの」は、細かな振動を伴ってそのうちに新たな空間を誕生させる。その人とその作品が醸す風情とは裏腹の、そこから生じる隠し持たれたかのような一筋の緊張感は、微妙な違和感から確信的に「存在」を際立たせる。私たち夫婦はすっかり初めて観た李禹煥のファンになった。

1956年、ソウル大学美術大生だった李禹煥は、横浜に住む叔父さんに漢方薬を届けるためこっそり日本に渡ってきた。そのまま日本に「いる」ことにした彼はソウル大学を中退し日大に入り直し哲学を勉強、後に「事物から存在へ」という評論集で日本の現代美術を理論的に主導・牽引する。そして、アーティストとして活動の場を広げ、日本を拠点としながらヨーロッパでも活躍、美術界に大きな影響を与えるアジア人芸術家のひとりとなった。回顧展はもちろん素晴らしかった。

「今夜、すべてのバーで」

平日の国立新美術館はけっこう騒々しい。乃木坂46がいるからではない。というかそんなものはさっぱりとおらず、地下や屋外のカフェで年配の方々がそこそこ大きな声でにぎにぎしく時間をつぶしている。いつか必ず観覧しようと考えていた展覧会ではあるが、この日を選んだのには理由がある。今日の夕方に身を置く寄り合いで、ある方と顔を合わせる。その方は母校文学部の東洋史の先生で、私が在学中も教鞭をとっていたし後に学部長も歴任された。私は専攻が違ったから学生の時分に先輩の授業を受けたことはない。しかしこの歳になって寄り合いで顔を合わすたび、なんだか楽しく何かを教えてもらっている。李禹煥が漢方薬を届けにきたのは、子供だった頃のこの先輩の家だった。ふたりは従兄弟なのだ。こうして「下ごしらえ」も済ませたことだし、今夜の酒も美味しいだろう。ああ、もうすぐ隠居の身。「時間をつぶせる技術」を磨く日々である。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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