隠居たるもの、懐かしい味が身に沁みる。2024年2月9日金曜日、またしても寒波が下りてきて、この日はぴゅうっと風が吹いた。日が暮れる時間ともなれば寒さが骨身にこたえる。私はスマホアプリ「乗換案内」が提案した電車にあと一歩のところで乗りそこね、閑散としたホームで10分後の次の電車を待っていた。西新井駅と大師前駅のふた駅を2分で結ぶ2両編成の東武大師線。いささかなりとも不安を抱いてはいた。夕刻の帰宅ラッシュにさしかかった時間帯だというのに西新井駅での乗換えタイムは2分、ずいぶんと「攻めた」提案だったからだ。
朝と違って帰宅の途にある乗客の動きはゆったりしている。そんな人たちに囲まれて階段を上り下りしているうち、一本向こうのホームで待ち合わせていた電車は出てしまった。行き先の店で落ち合うことにしていた大学の先輩たちみなさん(後輩一人を含む)は、この西新井駅で待ち合わせ、ともにタクシーで向かう。当然のこと私にもそうお声がけくださったが、もう一駅先の大師前まで電車に乗って寒空の下を15分歩く、私はそうしたかった。駅から食事会が設定された焼肉香の家に向かうその道筋が、私が59年と9ヶ月前に生を受けた、まさしくその界隈だったからである。
大師前駅には改札がない
大師線とは、東武電鉄の本線ともいえる東武スカイツリーライン(昔ながらの伊勢崎線の方が私にはしっくりくる)と西新井大師を結ぶ、全走行時間たった2分のローカル線である。だから昔を懐かしみ何ひとつ見逃すまいとじっと車窓を睨みつけていたのだが、どうにも勝手が違って調子が狂う。行手の線路が少しずつ高くなり壁に囲まれ車窓という車窓がないのだ。調べてみると22年半前1991年7月に高架化され、同線の踏切もすべて除去されたとか。少なくとも23年ほどは大師線に乗っておらず、しかも自動車でこの一帯を走ることもなかったということか。
高架化されて立派になった駅舎にソワソワしたのもさることながら、なにより驚いたのは改札がなくなったことだ。そもそもこの大師駅からどこぞに行くためには(その反対もしかり、帰ってくるためには)ひとつ先の西新井駅を経由しないと何も始まらない。だから西新井駅の大師線ホームから階段を登ったところに自動改札機を設置し、それを大師駅の出張改札として機能させている。自動改札機が張り巡らされた東京で切符を買う人はまずいないし、2両編成となった大師線はすでにワンマン運行に移行しているし、徹底的に人員を減らす工夫をした結果なのだろう(世知辛い話ではあるが)。それではどうしてこのような東京の外れで「食事をしよう」と持ちかけられたのであろうか。
在日コリアン料理としての焼肉を食したい
「足立区のこの古い焼肉屋にいっしょに行ってみないか?」懇意にしている先輩からお誘いがあったのは昨年の暮れのことだった。その店は東京に今も残る在日コリアン集住地域のど真ん中に位置する店だった。私はこのあたりで生を受けたのだが、3歳にならないうちに引っ越してしまって暮らした記憶は残っていない。しかし故郷を同じくする両親の友だちたちは以後もそのままここに住み続けたから、両親が元気なころは頻繁に遊びに来ていて土地勘はある。母親が大病を患ったとき、父親は「知っている人が院長で信用できるから」とわざわざ大師駅近くの西新井病院を入院先に選んだものだ。駅から環七を渡り、本木新道に入るとその病院が現れる。駅同様に立派に建て替えられていて「そりゃあそうだ、もう40年前の話だものな」と感慨に浸る。
その本木新道を荒川の土手に向かって南にまっすぐ下りたところに焼肉香の家はある。「いやそこよりこの店の方が美味しいから」という口コミを地元民から聞き及び、最終的に選んだ店であった。テーブル4つしかない狭い店内は地元の人であっという間に埋まる。間違いはなかった。在日コリアンである私たちが食べたかったのは、こういう在日コリアン料理としての焼肉だった。韓国を旅行し彼の地で焼肉を食した経験のある方はご存知だろう。韓国の焼肉と日本の焼肉は同じ料理ではない。つまり日本の焼肉は韓国料理ではない。それでは日本料理なのかというと発祥からしてそうとも言い難い。
かつて露骨に差別されていた在日コリアンは、肩寄せ合い固まって暮らした。だから集住地域ができた。そして大概は日本人がやりたがらない仕事に従事した。例えば、足立のこの集住地域で暮らしていた両親の友だちはみな鞄屋さんだった。学生鞄やランドセル、そのどちらかをこしらえていた。動物の皮を扱う仕事を当時の日本人が忌避していたからである。界隈を歩いてみると、立派なブランドランドセルメーカーとして生き残った家もあるにはあるが、学生鞄を作っていたうちはどこも廃業したようだ。高校に上がるとき、私を可愛がってくれたMさん(故人)に「とにかく薄っぺらいのを作って」と友だちの分まで頼んで、大量に出回った特注品が学校で問題となったこともあった。Mさんもあのとき「こんなに薄くて教科書入るのか?」って訝しんでいたっけ。同級生が集まると思い出される笑い話の一つである。日本の中高生は今や学生鞄を手に提げて通学しない。
在日コリアンが営む焼肉屋は、そうした肉体労働に従事する同胞たちの憩いの場だった。日本人が廃棄しようとするホルモンを安く仕入れて、どこかそっけないけど直接にガツンとくる味つけを新鮮な肉に施しスタミナ源として供する。時代が豊かになると赤い肉もメニューに加わった。そのうちに大きくなったりチェーン展開する店も現れる。そうした店の味は「高級」だったり「均一」かもしれないが、まろやかになりがちで、裾野が広がるにつれルーツから遠ざかり「日本料理化」も進む。あったことを無かったことにしようと愚かしい者たちが大きな声で言い掛かりをつけるのにかこつけて、群馬県がここぞとばかり喜び勇んで「朝鮮人追悼碑」を撤去する、そんなことがまかり通るなんとも哀れな時代である。経営者本人に自覚があるかどうかはいざ知らず、今も集住地域に残る「これぞ在日コリアン料理!」という焼肉屋にガツンとやられたい、そうした趣向が浮かぶのもそれはそれで人情というものだろう。本当に美味しかった。
マイアミの顔役
西新井の寒い夜から2日後、ちょっとした寄合いがあってまた大学の先輩たちと、今度はホームである高田馬場で飲んでいた。「もう一軒、行こう」となるのは常のこと、栄通りに足は向く。どの年代の同窓も通った居酒屋 清龍が今も残っているからだ。暖簾をくぐると、80歳の先輩がもう一人の先輩と盃を傾けておられるではないか。この先輩、私が学生だった時分は大隈通りで喫茶店を経営されていてコーヒーをご馳走してくださった。綺麗な白髪でかくしゃくとドーンとされているから、今はマイケル・コルレオーネに立ちはだかるマイアミの顔役という風情を醸し出す。当然のこと合流してまた一から飲み直す。楽しい夜も時間は進む。勘定に際してマイアミの顔役が「たまにはカッコつけさせろ」とドーンとお支払いくださるもんだから、まだ還暦にもなっていない私はおごってもらう羽目になる。西新井の夜にだって先輩たちはろくすっぽ払わせてはくれなかった。ああ、もうすぐ隠居の身。まだまだ若輩者の出る幕ではなさそうだ。