隠居たるもの、熊が出てきて肝冷やす。不意に鉢合わせしたわけではない。その時、私たちはお気に入りの白馬飯店で「鶏肉と銀杏のピリ辛炒め」を食していた。記録によると2021年09月19日 18時23分のことである。深川を留守にする夏の間、我が庵の植物たちに水やりしてくれるよう同じ集合住宅内の友人に頼んでいた。快く引き受けてくれるだろうことを見越して図々しいお願いをしたわけだが、奇特な友人は予想通りなんでもないことのように鍵を預かってくれた。そのお礼とばかり、2回のワクチン接種をすでに終えた彼女を、この3連休に散種荘に招待していたのだ。私のスマホiggyが「白馬村防災ナビ」のアラームを流す。笛を吹くわけはないが、どうやら熊が出たらしい。

「クマ出没注意のお知らせ」

「こちらは防災はくばです。農政課から、クマ出没注意のお知らせです。本日、午後6時ごろ、クマが目撃されました。付近の方、付近を通行される方は十分注意してください。」

ここは山の中、少しでも早く、どんな些細な情報でも得られるようスマホアプリ「白馬村防災ナビ」をiggyに入れている。まず村男3世が現れてほっこりしてしまうのが難点といえば難点だが、そのおかげで「なにごとか!」と力がこもった肩を「ふっ」といくらか平静に戻すという利点もあるにはある。農政課からであった。場所を確認すると、白馬飯店から1kmも離れていない、ここいら辺で唯一のセブンイレブンがあるあたりだ。15日に白馬入りした際、馴染みのタクシー運転手さんから「今年はまだ熊が出たって注意報が出てないなあ」なんて聞いていたのに、とうとう出たか…。「どちらにしろ移動はレンタカーだから(友人が下戸なんで、水やりに加えて食後の運転もお願いした)生身でいきなり襲われることもあるまい」とざわつく心根を落ち着かせ食事は食事で楽しんだ。帰宅して仲秋の明月に近いまんまるのお月さんに見惚れていると、近隣を管理事務所の車が巡回している。しばらくすると、あれは銃声なのか、静かな夜に花火を打ち上げるような音が5回鳴り響いた。迷わず山に帰ってくれたのならいいのだが…。

台風14号が過ぎ去って晴れ渡った秋の晴天

彼女が「8時ちょうどのあずさ5号」に乗車した18日の朝、当初の予測から進路を変えた台風14号は熱帯低気圧に変わり東京からも過ぎ去ろうとしていた。白馬では17日の夕刻から18日にかけて弱い雨が降った程度なのだけれども、天気のよくないときにわざわざ屋外で遊ぶこともないから、行楽に出るのは19日にし、ゴンドラに乗って岩岳に登ることにした。明けてみると恐ろしいほどの秋晴れである。なにぶんは山のこと、雲がここまでないということも実のところ滅多にない。岩岳に向かう途中、松川にさしかかって左を見やると、白馬三山が一糸まとわずどんと聳え立っている。どうにもうちに遊びにくるのは今のところ晴れ女ばかりらしい。

「アルプスの少女ハイジ」から「鬼滅の刃」へ

晴天が人を呼び寄せる。しかも3連休である。山頂にあるブランコがさぞや人気を博しているであろうと思いきや、長蛇とまではいかないまでもやはり人だかりがしている。ブランコの周囲では「口笛はなっぜぇ〜♪遠くまっで聞こえっるの♪あの雲はなっぜぇ〜♪わたしを待ってるの♪おしえてぇ、おじいさん♪おしえてぇ、おじいさん♪おしえてぇ、アルムのもみの木よ〜♪」と「アルプスの少女ハイジ」のオープニングテーマがリフレインする。これも晴天のなせるわざだろう、「ラリラリヤイッホ♪」という心持ちになるから不思議なものだ。しかし私たちはブランコの列には並ばず、雪山にひっそり根づいた常緑針葉高木「ねずこの森」散策に向かう。ねずこは幼樹の耐陰性が強く湿気の多いところでも耐えるから、冬は雪に閉ざされる岩岳でも育つ。成長が遅く移植も難しいそうで、雪の重みを受けとめた堂々たる奇木がここに屹立する。聞くところによると「鬼滅の刃」ファンの間で密かな聖地になっているという。主人公の妹で、鬼となってしまったヒロインの名が「ねずこ」、そこにひっかけてのことらしい。コスプレまでした人は見かけなかったが、確かに小学3年生くらいの女の子が「ねずこはここ!」と巨木の前でやたらと興奮していた。

そろそろ定点観測は店じまい

19日の午前中、岩岳に出向く前に私たちは「定点観測」と称し性懲りもなく裏手の平川に出かけていた。これも秋の晴天のなせる技、上空にはカラフルなパラグライダーが気持ちよさそうにいくつも飛び交っていた。明けての20日、「定点観測」はよしておいた。熊は水場である河原によく顔を出すと聞いている。昨夕に出没したのも、私たちがいつも遊んでいるところからして1.5kmほどの下流に程近い。まあ、キノコを見つけて秋の気配を感じたり、芝生がずいぶん青々とした庭の手入れ(つれあいは「道の駅 白馬」で買い求めた萩を植えていた)だったり、散種荘に置くことにした「岸惠子自伝」を友人が「熱心」に斜め読みしたり、つまり他にやることもあるからいいってことさ。そうこうして午後3時16分、3人はいっしょにあずさ46号で白馬を後にした。ああ、もうすぐ隠居の身。甲府あたりで富士山が秋の夕日に照らされていた。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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