隠居たるもの、あの日のことは忘れない。2011年3月11日金曜日午後2時46分、あれから9年が経とうとしている。新型コロナウィルスの影響で今年の追悼行事は各地で中止になっているようだが、未だに故郷に帰れないまま苦闘する人たちや、癒えない傷を抱えて生きている人たちを見聞きするにつけ、自分がどうしていたかも含めて、あの時あの頃のことを今でもまざまざと想い起こす。

新幹線は小山駅を出たばかりなのに速度を落とした

私はつれあいとともに、スノーボードをしようと山形蔵王に向かう新幹線の車中、栃木県の小山駅を過ぎたあたりにいた。母が脳梗塞で入院していたその冬、思うようにゲレンデに繰り出すわけには当然いかず、ようやくに時間がとれて、そのシーズン唯一の泊まりがけボード旅に出かける最中で、束の間のレジャーに気もそぞろだった。午後2時46分過ぎたころ、「ヒューン」と音を立てて震えながら新幹線が停まる。不自然に速度を落としたから大きく揺れたのだと思ったし、仲良しで旅行に向かうのだろう、斜め前に陣取るかしましい4人組のおばさんたちもわけがわからずおどけ合っていた。それから夕暮れ時までの3時間ほど、余震に激しく揺れ続ける高架上の車両に閉じ込められた。携帯電話も一切つながらず、車中を行き交う人の様子から、行くはずだった先でただならないことが起きたようだと気づき始めるものの、状況を把握できないまま度重なる余震にただただおののくばかりだった。

小山第二中学校剣道場で明かした夜

 送電が停まり空調が利かなくなって密閉された新幹線の車内がうっすら異臭を漂わせ始めた頃、タラップのような階段を使って線路に降りて、小山駅まで歩いて向かうよううながされる。30分ほどしてたどり着いた小山駅前は停電で真っ暗だった。母の入院で一人暮らしとなっていた親父が心配で、固定電話を貸してもらうため駅前の交番の列に並ぶ。携帯電話は未だ一向につながらない。親父は無事だった。「すぐには帰れそうもないけれど、私たちの心配をする必要はない」旨を伝える。壁が落ちている駅を離れるよう注意され、寒気にさらされ途方に暮れていると、少しやんちゃそうな青年が闇の中から「あったまってください」と味噌汁を差し出してきた。駅前の居酒屋がガスの明かりで炊き出しを始め、ロータリー付近にたむろする行き場を無くした人に振る舞い始めたのだ。遠慮なくいただく。情けが身にしみる。私たち夫婦は小山第二中学校剣道場に避難するよう指示を受け、誘導に任せて駅から20分くらい列をなしてそこに荷をおろした。底冷えする避難所に流れているラジオが「陸前高田、津波によって壊滅的被害」とアナウンスしているのを聞いた。剣道場の天井に張られたワイヤーが、止まない余震で一晩中カシャンカシャンと音を立てていた。

土曜の小山は異様に静か

小山市から数回おにぎりの炊き出しをいただき、早く着いたからといって毛布3枚を一人で独占して悠々と身を横たえているおじさんを心の底から軽蔑し、寒さに震えながら避難民として一夜を過ごした。明けて、大宮から北は電車が当分は走らない(小山は大宮からすると北になる)、今日明日の話ではない、タクシーを呼んだとしても幹線道路は渋滞でまるで動かない、と教えられる。ここにいてもラチがあかないし、親父が心配だし、幸い大きな荷物は蔵王に送ってあって身軽だし、情報はiPadがあるから大丈夫ということにしたし、小さなバッグを背負って小山第二中学剣道場を後にした。大宮を、そしてそこから南の自宅を目指す。大宮までの距離は51.8km、自宅までは105km。・・・。途上、東武線の方が早く動き出すだろうと予想し、目的地を10㎞ほどは近い南栗橋に変更する。グーグルマップが示す最短距離の道すじは異様なほどに静かだった。

地獄に仏

18km歩き、つれあいが疲れ果てて座ってしまう。責めることもできず「どうしたものか」と思案していたところに地獄に仏、野木に住むKさんという方が、いったんは通り過ぎたものの、道端にたたずむ私たちを見かねてバックしてきて車に乗せてくれた。「ヒッチハイクする!」と目を爛々と輝かせていたつれあいが射止めたのだ。ぺ ヨンジュンに似た本当に親切な人だった。とりあえずガソリンを満タンに入れに行く途上だったそうだ。報道を映像で見ているKさんから、あらゆるものを飲み込んだ津波の恐ろしさを聞かされた。目論み通り東武線は動き始め、南栗橋駅に北千住行きが入って来た。北千住で浅草行きに乗り換え、隅田川に近づき、634mに達した開業前の東京スカイツリーに迎えられて安堵する。3月12日午後2時、押上の蕎麦屋で遅い昼食をとり、帰宅して散乱したものを片付け風呂に入り、親父を呼んでビールを飲んだ。親父とはそのまま同居を始めることとなった。その年の11月27日、母は90歳で見事な大往生を遂げた。

“悪夢“をもたらした者たち

天災の後を襲ったのは人災だった。「いつこの足元が崩れるだろうか」東京でもそんな重い不安を抱えながら日々を過ごしていた。節電対応のため地下鉄構内は暗く、多くのエスカレーターが停止していた。この人災をもたらしたのは誰か?はっきりしているではないか。想定されていたリスクを利潤のために意図的に隠していた電力会社と、タカをくくって原子力の利権に群がった者たちだ。それはすなわち、経済効率を言い立てて原子力発電所の再稼働を今日においてもいけしゃあしゃあと求める者たちだ。安倍総理大臣が嬉しそうに「悪夢のような…」と揶揄する人たちは、たまたまあの時に政権を担っていたとはいえ、実は誰一人としてここには含まれていない。むしろあなたたちこそ…。さらにコントロールなんかできてないのに「アンダーコントロール」って…。気の弱い私なぞには、その厚顔無恥な「神経の太さ」に理解が及ばない。

毛布を独占するおじさんでもいれば、味噌汁を差し出す青年やKさんのような人もいる

阪神大震災でも、東日本大震災でも、熊本地震でも、はるかに過酷な被災をされた方々、それぞれに言い尽くせない経験をされ、引き続いて避難生活を強いられている方々が数多くいらっしゃる。3月11日午後2時46分に思う。ああ、もうすぐ隠居の身。少しでも心の傷が癒えることを、そしてまずはご無事であらんことを。

* 写真はすべて9年前に私が撮影したものです。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です