隠居たるもの、湧き上がる かゆみこらえて 秋の雨。2026年9月3日の昼下がり、もう少しで午後2時になろうかという頃合い。ちょいとした所用を済まそうと2泊3日の予定で東京を訪れた私たち夫婦は、その2階を住まいとしている銭湯の前に到着するなり、あまりの衝撃に言葉を失った。あと1時間半もすれば出入り口に暖簾もかかろうかという時分にもかかわらず、男湯と女湯を区分するように設えられた2枚のシャッターは、いささかなりとも巻き上げられることなく、ぴったり下まで閉ざされたまま。そして両側のシャッターを支える幅広の柱に据えつけられた掲示板には、赤いアンダーラインまで引かれて何事かを強調した告知がペタリと貼りつけられている。よく見ると、カレンダーの裏に違いない紙に「工事の為 3日・4日連休します、5日(土)定休日」と大書されていた。つまりこの日から3日間、銭湯は休みだというのだ。あちこち歩けばまだまだ汗ばむ滞在中、どうにも困った…。

入浴は美容と健康の源

 どこか設備に不具合が生じ、修理に3日ほどかかるのか。ごまかしごまかしなんとか8月をやり過ごし、9月最初の定休日が来るのを待っていた、ということもあるだろう。ひるがえって私たちはというと、野暮用を済ますため9月早々に2泊3日くらいで東京にやって来ようと日程を探っていたところ、メロン坊やの父親から「夫婦ともに4日の夜にどうしても外せない仕事ができてしまい、もしそのとき銭湯の2階にいるなら息子の面倒を見てくれませんか?」とオファーされ、「ならばそれに合わそうじゃないか、そして銭湯が定休の土曜日に白馬に帰る」と予定を組んだのであった。まさかその日程と臨時休業がすっぽりかちあうとは思いもよらず。ここはひとつ、面倒も見ることだし、近くのマンションで暮らすメロン坊や一家の風呂を両日ともに使わせてもらう以外に方法はあるまい。

知らぬ間に襲い来る蚊の恐怖

 諸々の用事を一つずつ済ませ、昼に久方ぶり清澄白河のタベルナノーメに立ち寄り「シラスと空芯菜、カラスミのスパゲッティー」なぞを食し、3日と4日の両日とも、夕方にはメロン坊やが暮らすマンションに風呂道具を持って足を運ぶ。直接に赴いた3日、植栽に囲まれちょっとした広場になっている出入り口で同じ棟に暮らす同級生と遊ぶメロン坊やに出くわし一緒にしばらく戯れた。そして遅い午後から始まり小雨が降る中で決行されたFC東京子どもサッカー教室につきそった4日、帰ってきてまた広場で、鍵を持つつれあいが現れるまで戯れた。悔しいかな、ここに油断があった。植栽が豊富なここは蚊のスポット、半ズボンから露わにされた両膝から下、そこを狙い澄まして奴らが襲いかかる。白馬では細心の注意を払うくせに「東京だから」とタカを括っていたのか、虫除けスプレーをかけることもなく(白馬では予備まで置いているのに東京ではそもそも常備もしていない)、刺され放題に刺され、吸われ放題に血を吸われた。黒々とでっかい白馬のそれに比べ東京の蚊はとても小さく、夕暮れに紛れると察知するのも難しい。ゾワっと痒みが湧いて初めて気づき「俺もやきが回ったぜ…」と嘆いたところであとの祭り。二日にわたって優に十数箇所に及ぼうか、「虫さされににウナ」にまみれた脚で白馬に帰る羽目になったのである。

必殺の秘密兵器はハエたたき

 ひるがえって白馬である。東京や大阪はたまた名古屋など灼熱の都会に比べるのもナンセンス、快適極まりなくとても過ごしやすい。しかし一点だけ都会にない難儀がある。それが虫である。蚊ばかりではない。注意を払っているつもりなのに家の中で小さな羽虫が翔んでいるなんて日常茶飯事。それどころか大きな蛾が悠然と壁にとまっていることだってある。中でもアブ、この吸血昆虫に侵入されると一瞬にして緊張感が走る。一見すると綺麗なハエのような容姿のあいつらは、蚊のように皮膚にすっと針を刺すのではない。鋭いナイフのような口器で容赦なく皮膚を咬みちぎる。そしてその傷から出血する血液をベロベロと吸う。想像するだに恐ろしい。

アース製薬のHPから:https://www.earth.jp/gaichu/wisdom/sonota/abu.html

 咬みちぎられた皮膚は痛むし腫れる。傷が治癒するまでには二週間ほどかかり、その間ずっとひどい痒みが持続する。とにかく厄介なのだ。アブハチ用の強力な殺虫剤もあるが、あまりに強過ぎるがゆえ室内およびその近くでは使えない。考えたあげくこの夏に導入したのが、ハエたたきと捕虫網。「原始的な方法が実は最も効率がいい」とはよくあることで、案の定、遺憾なく威力を発揮した。うっかり室内に入れてしまい手の届かない壁にとまったアブを発見したとする。そうした場合、まず捕虫網を手に取り伸縮する竿を適切な長さに調節、すばやく網を標的のアブにかぶせ羽ばたいたら枠を回転させ閉じ込め床に下ろす。そして網の中で蠢くアブにハエたたきを一閃、即死させることがせめてもの慈悲、やむなき殺生に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、持ち手の端っこに挟み込まれているピンセットを外して仏をそっと外につまみ出す。これも食物連鎖、翌朝までには小鳥や蟻の餌となる。

プリンセスに仕えるナイト

 「優れもの」である。さりげなくピンセットが挟み込まれている、行き届いたその配慮も素晴らしい。なのにこれで1本148円、1ドルしないのである(執筆時9月8日13時50分時点のレートで計算すると95セント)。破格が過ぎる。どこにいても即座に対応できるよう3本買い求めたが、これが1本250円(1ドル61セント)くらいだったとしても私たち夫婦は驚かない。この夏これで何匹のアブを葬ったことか。8月に姪孫3人を含む一族郎党が散種荘に集ったとき、盛りを迎えたアブを警戒するよう「彼らの習性」を子どもたちに説明した。とはいえ必要以上に怖がらせるのもなんなんで、「まあ昨日も一昨日も大叔父は一匹ずつ退治しているから」とつけ加えたところ、8歳になるちょっとビビりな年嵩の女の子が「毎日二匹殺して!」と私に命じた。大叔父は姫(プリンセス)に仕える騎士(ナイト)である。さあ、アブよ来い。

散種荘を訪れる珍客たち

 散種荘を訪れるのはなにもアブや蚊の類の剣呑(けんのん)な者たちばかりではない。たとえば木の葉や枝に擬態するナナフシである。でもそれは通称で、正式名称はナナフシモドキ。ナナフシを漢字にすると「七節」、ここで使われる「七」は「たくさん」の意で「七節」とは「節がたくさんあるもの」つまりは「木の枝」のこと、そして「木の枝に似ているけれど木の枝ではなく虫」だから正式名称は「ナナフシモドキ」、とまあこういう理屈なんだそうだ。勝手に「ナナフシ」と名づけられ、他にその名を持つ虫がいるわけでもないのにこれまた勝手に「モドキ」呼ばわりされる、まったくもって気の毒である。だから私たちは「モドキ」を無視して「この夏もありがたいことにナナフシが来てくれた」と、とぼけた様子の珍しいお客さんを愛でるのであった。

 たとえば純白で神々しいアメリカシロヒトリである。「庭や目の前に現れるからにはスピリチュアルな意味合いがあって、それは『大きな変容・自己成長の予兆』、『環境や心の浄化・見直し』のサイン」と言う人がおられるそうだが、こちとらそれを鵜呑みにするほどロマンチックな性分でもない。この蛾の美しさをひとしきり愛でたあとに調べてみると、繁殖力が強く、大量に産みつけた卵から孵化した幼虫が植物の葉を食い尽くしてしまう、とあった。卵が産みつけられてなかったかあたりを慌てて調べたのは言うまでもない。

 ある朝、いつものように洗濯機を回してストレッチをしているとどこかで「ゴン」、何かがぶつかったような音がした。あたりを見回してみると、窓の向こうでオニヤンマが仰向けにひっくり返ってワナワナ悶絶している。そそっかしい空の王者、窓に気づかず滑降してきて思いっきり頭からガラスに突っ込んだに違いない。手助けして腹這いにしてやったのだが、頭を打ったからかどうにも動きがチグハグだ。そうこうしているうちなんかの拍子にフッと浮上できたと思ったら、窓の外にディスプレイしている流木にしがみつき、そのまま首も回さずじっとしていた。人間と同じく脳震盪を起こしたらしばらく安静にする他ないんだろう。昼食の頃合いに「どうしてるかな」と窓の外を見やると、すでに飛び立ったあとだった。その瞬間を確かめたかったから残念ではあったけれど、無事だったならなによりだ。数日経ってから我が庭を何度も何度も旋回するオニヤンマがいた。おそらくあいつが「あのときはどうも」と挨拶に来たのだろう。

 8月末から続く雨がちな天候は9月に入ってすっかり秋の長雨の様相を呈している。死場所を求めていたかのようにひっそりウッドデッキでことキレるキリギリスも見かける。夏を謳歌した虫たちの季節はどうやら幕を閉じつつあるようだ。ハエたたきや捕虫網をそろそろしまおうか。ああ、もうすぐ隠居の身。そうして薪の準備に取りかかるのだ。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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