隠居たるもの、風に吹かれて進路を変える。京成青砥駅のホームに立ち、都営浅草線に乗り入れる上り電車を待っていた。2021年11月18日午後1時30分頃のことだ。ひと月半ぶりに古い友人ヤスの美容院で髪を切った帰りだった。その時、ふっと風が吹いた。考えてみれば、すぐに上り電車に乗らなければならない用事などないのだ。身体を左に向け、目の前にある階段を進んで下り電車のホームに登る。ひと駅先の高砂に行き、そこでたった3駅を結ぶ京成金町線に乗り換える。高砂発午後1時37分の電車で向かおうとしているのは、これまたひと駅先の柴又だ。

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今週末は「寅さんサミット」

フーテンの寅こと車寅次郎の名言に、「俺はね、風には逆らわないようにしているんだよ。風に当たると疲れちゃうから。(「男はつらいよ 拝啓車寅次郎様」(第47作)より)」というのがある。深川の我が庵から、44年来の友人ヤスが夫婦で営む青砥の美容院まで、東京メトロ半蔵門線から押上で京成電鉄に乗り継ぐ。秋になると、乗り換えの際に、2015年から開催されている毎年の恒例行事「寅さんサミット」の大壁面ポスターを必ず見かけるようになった。勤めに出ていたときも、ヤスのところで髪を切るためには大概この壁の前を通ってきたわけで、しかもそれは月に一度くらいと相場が決まっていたわけだから、「ああ、もうそんな季節か」などと歳時期をめくったような心持ちになる。しかし、柴又への風が吹き始めたのはここからではない。それは先週の土曜日、ウォーキングで訪れた小名木川の中川口でのことだった。

「男はつらいよ 口笛を聴く寅次郎」

おにぎりと水を持って、昼少し前に小名木川を伝って5km先の中川を目指す。滞りなく昼飯時にのどかな河原に辿り着く。その光景があまりにもつつましく平和だったものだから、唐突に「男はつらいよ」の冒頭シーン、以下に示す架空の寅次郎モノローグが私に聴こえてきたのだ。仮にサブタイトルを「口笛を聴く寅次郎」としておく。

老夫婦が仲睦まじく釣り糸を垂らしております。
釣れたハゼを天ぷらにして、今晩のおかずにでもするんでしょう。

向こうで小さな男の子が父親に甘えております。
どうにも可愛らしいその声に、川下から古い流行り歌のメロディーがどことなく物哀しく重なります。
欄干から川に身を乗り出して、きれいな口笛を吹くあの人は、何を想い出しているのやら。

お笑いくださいまし。
やくざな旅に出たっきり、こんな静かな秋の日に、川を眺めて握り飯をほおばっておりますと、無性に故郷が恋しくなるのでございます。

私の故郷と申しますのは、この川を渡ってそのまた向こう、そう、葛飾 柴又なのでございます。

「チャ〜ン チャリラリララ〜♪」とここで主題歌がかかる。Googleマップで調べてみると、ここから柴又はほぼ北に9.5km。風はこの時から吹いていた。

「見送るさくら」像

ヤスとあまり話せなかった。彼はとても忙しく、私とゆっくり馬鹿話をしているゆとりがなかった。仕事中なのだからそれは仕方ないことなのだが、私からすれば正直なところ幾らか寂しい。それが最後の最後に背中を押し、さしたる用事がないことをいいことに、逆方向に少しだけ寄り道をする決心をさせる。

古い写真を調べてみると、柴又を訪れるのは12年ぶりのことであった。駅に降り立ち驚く。その時もあった「フーテンの寅」像は、新しくできた「見送るさくら」像に合わせ、相対するように配置を変えていた。しかし、それほど広くもなかった駅前広場がさらに狭くなっている。その上、雑多な色が混じり合ってかつては魅力的に猥雑だった並びが、無機質に統一されたベージュのプレハブがせり出すこざっぱりした空間になっている。はっきり申し上げて「興醒め」である。唯一の救いはさくらの足元が(たぶん白の)ハイソックスだったことだ。

川甚とルンビニー幼稚園

そこで暮らしている方々もいらっしゃるから、外野が勝手なことを言い募るのも申し訳ないとは思うのだが、例えば「寅さんサミット」のコピーが「日本の原風景を守り、後世に伝える」で「その舞台としての柴又」を売りにするのであれば、もう少し細部にわたって「原風景」を守る努力をしたらいかがだろうか、とあたり一帯を歩いたのちに率直に思ったりする。一方で、景観を守ろうとする努力がなされているのも事実で、新型コロナウイルスによる経営難から今年の1月末で創業231年の歴史に幕を下ろした川魚料亭「川甚」を、「跡地に大規模なマンションなど開発されたら景観が守れなくなる」と葛飾区が買い取り、今後は新館を展示施設にする計画を立てているという。前を通りかかってみると、老朽化した本館の解体が始まろうとしているところだったが、ここはさくらと博が第1作で結婚式を挙げた「男はつらいよ」の聖地だ。その向かいにある、第4作で栗原小巻が保育士(当時は保母さんと言っておりましたな。今は男の人もする職業だから「保育士」と呼ぶのは当然でしょう)として勤めていた「ルンビニー幼稚園」は、近辺にマンションが増えたからだろうか、お迎え時間に当たったこともあって大変な盛況だった。

「原風景」を守るためには

平日の寂しい時間帯と違い「寅さんサミット2021」が開催される明日と明後日はきっと賑わうのだろう。とはいえ、「男はつらいよ」をいつまでも愛する世代がいなくなれば、自ずとその賑わいもなくなる。しかし、帝釈天は帝釈天だし、寅さんと源ちゃんが寝っ転がっていた矢切の渡しあたりの河原が河原でなくなることもあるまい。そもそも「日本の原風景」がどんなものかは世代によっても異なる。どっちつかずは残念な結果しかもたらさないから、どうあるべきか、こぞって「知恵」を振り絞るべきと思う。それはなにも柴又に限ったことではなかろう。

帰庵し真っ先にしたことといえば、ヤス同様44年来の友人たちに連絡することであった。いっときだけ緊急事態宣言が解除されていた7ヶ月ほど前のこと、ヤスを含めた旧友4人で軽く飲もうと約束をしていた。為政者の楽観的に過ぎる無策の結果、あっという間に状況は暗転し私たちの約束もやむなく立ち消えそのままになった。気ままにヤスと話せなかったことでそのことが思い出された。私たちは約束を復元し、今月中に押上のもつ焼き屋で雁首をそろえて飲むことにした。いい寄り道だった。どちらにしろだ。ああ、もうすぐ隠居の身。「原風景」は心の中にしまってある。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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