隠居たるもの、反射的に「ゾフィー…ゾフィー…ゾフィー…」とつい真似る。この省察のタイトルに「?」となった方々もおられるだろう。アメリカのSF作家 フリップ・K・ディックの代表作に「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(原題は「Do Androids Dream of Electric Sheep?」)という傑作がある。監督:リドリー・スコット 主演:ハリソン・フォードで1982年に公開された映画「ブレードランナー」の原作だ(とはいえ、大胆に翻案された映画はすべてにおいて小説と大幅に異なっているから、「原作」ではなく、むしろ「元ネタ」と言った方が正確だ。どちらにしても、小説と映画、双方ともに歴史的名作であることに違いはない。)その題名がふと思い浮かんで、嬉しくてつい「翻案」してみたくなったのである。2023年2月10日、散種荘に一人で過ごす私は、映画「シン・ウルトラマン」を観た。そして感動した。
火事と喧嘩は江戸の花
暮らす庵の排水管清掃に立ち会わなければならなくて、先週の土曜日2月4日の夜にいったん白馬から東京に戻ったんだけれども、シーズン真っ只中に雪山から離れてしまうのはどうにもソワソワして居心地が悪いものだから、ほんの数日の間にその他の所用もなんとか詰め込み、前日の9日を予備日とした上で、10日午前10時32分の新幹線に乗れるよう段取りを立てた。幸いにしてとりたてて想定外のことが起きることもなく、9日の木曜日は「フリー」となる。久しぶりに神保町に出かけて東京堂書店でまとめて本を物色しよう。するとなると、このところスキー場でカレーばかり食べているからといって、スマトラカレー共栄堂を素通りするわけにもいくまい。注文はいつもと変わらず「ポークカレー、ご飯は少なめで」で、常と変わらずここにしかない美味しさだった。しかし、あっという間に食べたのちの会計はこれまでと違っていた。950円だったものが1,100円に値上がりしていたのだ。心持ちポークの分量が増えていたようにも思ったが、それも店側のせめてもの心意気なのかもしれない。調べてみると前回に訪れたのは昨年の8月であった。どうにも致し方ない。
お正月に東京都現代美術館でオランダの芸術家 ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ「柔らかな舞台」展を鑑賞したのだが、世界各地で穏やかに語られる「異議」を集めた多声性で成り立つ作品群を短時間ですべて見渡すことは難しく、主催者は2月19日までの展示期間いつでも有効なウェルカムバック券なる再鑑賞許可チケットを配布していた。私がそれを利用できる機会はもうこの午後だけ、神保町から我が町に帰り、せっかくのお言葉に甘えてもう一度ウェルカムバックしてみた。
鑑賞を終えて「いやあ、観てみるもんだなあ。『なるほど!そういうことだったか!』と足らざる部分に得心がいって、なんていうか全貌がつかめたって感じさ」などど、ひとりブツブツ言いながら東京都現代美術館に隣接する木場公園をそのままウォーキングする。そろそろ帰ろうかと我が庵の方角に顔を向けたとき、まとまった黒い煙が北風にからまって流れてくるのが目に入る。「さては火事じゃねえのか?」と訝しんでいると、あちこちからけたたましく消防車のサイレンが鳴り響く。小学生たちが火元の見当をつけて走っていく。頭上にはマスコミのヘリコプターまで。建物の合間にのぼる煙の方角からすると…、「おい!俺んちの方じゃねえか!」家路を急ぐに際して、北風に煽られた火事の煙を真正面から浴び続け、燻製のような渋い香りが身に纏わりつく。「火事と喧嘩は江戸の花」というが、なにも江戸っ子が火事が好きだったわけではない。火事が多かった江戸で火消したちの働きぶりがはなばなしかったことを指して惚れ惚れと「花」と称揚していたのだ。現代の火消したちも、テレビに出るくらいの大きな火事だったにも関わらず、寄ってたかってあっという間に火を消した。翌10日には東京にも警報級の雪が降るというのに、その前日に焼けちまうとはご近所さんも気の毒だった。ご商売を続ける気力が残っておられるかどうか、またひとつマンションができることになるんだろうか。
またしても寒波の最中に北に向かう
しかしこの冬はどういう巡り合わせなのだろうか。前回の白馬入りは10年に一度という大寒波の最中だったし、今回も前日からさんざん脅された(それほどのことにはならなかったようだが)。まだ仕事が残るつれあいを東京に置いて、せかせかと単独行する抜け駆けを咎められたのだろうか。朝から雪が舞う東京を出発した新幹線の車窓は、王子のあたりからしっかりと白が基調になり、帰国の途上にあるオーストラリアの方々でごった返す長野駅に降り立つころには、傍目にもはっきりととんでもなく雪が降る。この分では白馬で買い物をする余裕などまずなかろうから、長野の駅ビルMIDORIで2日半ほどの食材を調達してから早めにバスに乗り込んだ。買い物袋を抱えて座席にひとり座る私を取り囲んだのは、この冬の常と変わらず、オーストラリアとチャイニーズの方々だった。
焼き鯖寿しとわかさぎ唐揚げと「シン・ウルトラマン」
福井県知事賞を受賞した焼き鯖寿し、諏訪の名産 わかさぎ唐揚げ、もう大人だから「野菜を取らねば」と買い求めたセロリとハムのカラフルマリネサラダ。MIDORIで調達したこれらをつまみにして、遅ればせながらAmazonプライムで無料配信していた「シン・ウルトラマン」を観る。つれあいが好んで観たがるとも思えないからここぞとばかり選択してみたわけだが、どうしてどうして、これが本当に素晴らしい。映像制作の技術向上もさることながら、ゾフィー「ウルトラマン、そんなに人間が好きになったのか」ウルトラマン「ゾフィー…ゾフィー…ゾフィー…」というやり取りなど、私たちが半世紀以上前に夢中になった「ウルトラマン」が現在に見事に焼き直され踏襲されている。その上、あの頃にふと抱いた「だけれども、なぜ日本ばかりが怪獣に襲われるのか」という素朴な疑問にも、「地球上の国際情勢を分析した上で侵略者が下した冷徹な戦略」と真正面から回答がなされている。そして何よりも、私は長澤まさみにめっぽう弱い。シン・ウルトラマンが一人おやじの夢を見ることはなかろうが、一人おやじがシン・ウルトラマンの夢を見るのは不思議ではない。
一人おやじはスキー場の夢を見るか?
一夜が明け雲はすっかり去った。土曜だけれども今日はやることもないしスキー場に出かけてみる。近くのシャトルバス停留所で、勝手がわからないチャイニーズの若いカップルに「このバスは君たちの目的地には行かないから、次に来るバスを待って乗りたまえ」と英語で教示したり、「シン・ウルトラマン」に感動した一人おやじはなかなかカッコいい。五竜&47スキー場はやはり混んでいた。後期試験が一段落した学生たちがいよいよ加わってきたようだ。一団で動くこの子たちは、ほとんどが初心者および初級者なもんだから、あちらこちらにケラケラと滞りを作る。ああ、もうすぐ隠居の身。どうやら春が近づいてきたようだ。