隠居たるもの、台風の進路を気にかける。2023年9月8日、早朝から激しく降りしきる雨を窓の外に見ながら、私はステレオセットの配線に四苦八苦していた。どうにか午前中に終わらせたい。台風13号が午後に関東に上陸するというのだが、テアトル新宿で上映されている「福田村事件」14時40分の回を予約してあるのだ。「無謀」というそしりはあたらない。我が深川の庵から最寄りの駅まで辿り着ければ、地下鉄だからこそ電車は通常運転、目的地である新宿三丁目駅で降りたあとは、地下通路からそのまま伊勢丹地下1階食品売り場に入り連絡通路をつたってメンズ館に抜け、靖国通りに面した小さな出入口から外に出る。そこから細い路地を挟んで隣接する建物こそがテアトル新宿だ。とにかく、午前中にステレオセットのセッティングを済ませたい。

修理に出していたプリメインアンプ

あまりにも暑いからか、夏になってプリメインアンプの動きが怪しくなった。快調にスピーカーを鳴らしていたかと思うと突然に音が落ちる。いったん電源を落として入れ直してみると何食わぬ顔して再び音像を差配する。しかしこの酷暑の中、その間隔は短く頻繁になり、2曲の演奏も終わらぬうちスッとメーターが落ちるようになった。修理に出すことにした。「コンデンサーが問題でした。その他の劣化していた部品も交換しました。明日の午前中にお届けします」メーカーのアキュフェーズから電話があったのは白馬から戻った翌日、台風13号の進路についてテレビがけたたましく騒ぐ7日朝一番のことだった。「容易にできることではないから、重い機器が不在であるこの隙に、何年かぶりでオーディオラックにオイルを塗り、ついでに壁際にたまった埃を掃除しよう」私はそう一念発起する。8日の午前10時、台風がらみの大雨の中、佐川急便がE-360を届けてくれる。前日にラックに塗ったオイルは乾いているし、あとは機器の配線をして元の配置に戻すだけだ(それが大変なのだが…)。

はたしてこのアンプ、修理に出さねばならないほど長く使っただろうか。保証書には購入2015年4月と記載されている。もう8年半になるか…。そうだ、この年の1月、1919年4月生まれの父親が天寿を全うしたのだった。最晩年の4年弱を同居していたから軽くリフォーム工事をすることにして、そのどさくさにまぎれて分不相応なこのオーディオ機器を購入したのだった。1923年の関東大震災から今年で100年。親父はまだ東京で暮らしてはいなかったけれど、すでに4歳半だった。映画「福田村事件」はそのときの話だ。

映画「福田村事件」公式サイト:https://www.fukudamura1923.jp/

映画「福田村事件」(*NO「ネタバレ」)

公式サイトの序説の記載を引用する。「1923年9月1日11時58分、関東大地震が発生した。そのわずか5日後の9月6日のこと。千葉県東葛飾郡福田村に住む自警団を含む100人以上の村人たちにより、利根川沿いで香川から訪れた薬売りの行商団15人の内、幼児や妊婦を含む9人が殺された。行商団は、讃岐弁で話していたことで朝鮮人と疑われ殺害されたのだ。逮捕されたのは自警団員8人。逮捕者は実刑になったものの、大正天皇の死去に関連する恩赦ですぐに釈放された…。これが100年の間、歴史の闇に葬られていた『福田村事件』だ。行き交う情報に惑わされ生存への不安や恐怖に煽られたとき、集団心理は加速し、群衆は暴走する。これは単なる過去の事件では終われない、今を生きる私たちの物語。」

コロナ禍だったということもあるが、劇場で映画を観るのはなんと3年と7.5ヶ月ぶりのこと。映画自体は自宅のプロジェクターで観ているものの、流石にこれはひどい…。同行したつれあいはこの間にシニア割引の対象者にすらなっている。ここまで劇場から足が遠のいていたのだが、この「福田村事件」は公開前から「どうしても劇場で観なくては」と思っていた。ドキュメンタリーを主戦場とする森達也監督のインタビューがあちこちで話題になるなど、この映画に対する期待が高まっていることもヒシヒシと感じられた。関東大震災から100年を迎えた9月1日に公開されてからも、劇場は連日満員だとも聞こえてきた。だから「大雨の日ならば空いているだろう」とわざわざ台風の日を選んだのである。しかし同じように考える方も多かったのだろう。満員というわけではなかったが、台風が通過するまさしくその時間帯に3分の2の席は埋まっていた。どうしてここまで熱気に包まれるのだろうか。

女性自身:https://news.yahoo.co.jp/articles/d6e5cf2eb66e383e64fee3684a954e9739f19cd2

文春オンライン:https://news.yahoo.co.jp/articles/33e65c395d67957e6b23d7d7209d9f206f3de0b3

関東大震災の被害が最も甚大な地域で私は育った

私が育った荒川と隅田川にはさまれた東京都墨田区は、関東大震災の被害が最も甚大だった地域のひとつだ。半世紀も前の小学生のころ、関東大震災から50年ということでそれにまつわる授業が延々とあったことを想い出す。親父は17歳になってからこのあたりで暮らし始めた。関東大震災からまだ日も浅い13年後の1936年のことだ。生き残った人たちから色々と聞かされたそうだ。その中には「荒川の川原のあそこらへんだよ、朝鮮人を座らせて並ばせてな、みんな殺したんだ」という話も含まれていた。もしも親父がもうちょっとだけ長生きして、東京都知事になった小池百合子が歴史的事実を自らは認めようとせず、「何が明白な事実かについては、歴史家がひもとくものだ」などといけしゃあしゃあのたまった姿を目にしたら憤怒のあまりその場で息絶えたかもしれない。厚顔無恥にも「なかったことにしたい人たち」は、面倒臭いし彼らにとっては都合がいいから、人権はないがしろなまま、根拠のない差別もそのまま、そんな社会を望んでいるのだろう。一方で「そんな社会」に対する憤怒が充満しきっているからこそ「福田村事件」は熱気をまとう。

「気合い」と「気骨」

「びっくりしたぁ、水道橋博士がすごかった」興奮気味のつれあいの第一声である。私は「コムアイ(水曜日のカンパネラのボーカルやってた人)もよかったぞ。田中麗奈もいい感じで歳を重ねたな」と応じる。権力への忖度なし、監督、スタッフ、出演者、関わった人すべての、なんというか「気合い」と「気骨」が漲っている映画だった(ピエール瀧はいつもと変わらないが、笑)。そもそも複眼的で映画として面白いから2時間17分もそれほど長く感じない。日本映画にしては音もいい(録音が悪いのか、モゴモゴしてよく聴き取れない作品が多いように感じる)。劇場の外に、余韻に浸りながら森監督のインタビュー記事をじっと読んでおられる方がいた。わかる、私たちはこんな映画を待っていたのだ。きっとヒットするだろう。これを機会にもっと劇場で映画を観ようと思う。帰るころ、新宿の雨は上がっていた。それにしても「福田村事件」、そんな昔のことでもなかろう。だってそうだろう?ああ、もうすぐ隠居の身。せいぜい私の親父が生まれてからの話なのだ。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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