隠居たるもの、見上げる危険を顧みる。2022年2月13日、3連休の最終日に乗車率100%を超える新幹線で帰京して以来、深川の庵で手持ち無沙汰に時間をやり過ごしている。日常と化して長々と続く「新型コロナ禍」、もう警戒感を維持できないからか、オツムを疑うほど無防備にはしゃぐ人たちをそこかしこに見受ける。よって感染は容易に収束しないだろう。寂しくって仕方ないのかもしれないから「どうぞご自由に」と思いつつも、流れ弾にあたったりしたらどうにもやりきれない。いきおい私はおとなしくならざるをない。とはいえ、明後日20日の日曜日にまた白馬に向かう。大学時代からの友人をひとり、散種荘に迎えるのだ。
「屋根からはまだ落雪していません。氷柱や氷などで重くなっていますのでご注意ください。」
雪道の運転に慣れている彼は自動車でやってくる。そのため管理事務所に駐車場の除雪を依頼したら、「屋根からはまだ落雪していません。氷柱や氷などで重くなっていますのでご注意ください。」との返信があった。いったん落雪して雪かきしてもらったのは1月10日のこと。それからも雪は降り続き、幸い屋根に着地したものたちが手に手をとって、ここが終の住処とばかりにしがみつく。晴れる日もあって、すると遮るものなく屋根雪に陽光が降り注ぐ。我慢しきれなくなった水のしずくが端からたれる。しかし気温自体は氷点下、落ちずに凍ったそれが氷柱(つらら)となる。駅近くのマツモトキヨシの氷柱には度肝を抜かれたが、どっこい散種荘だって氷柱に取り囲まれている。子供の時分、初老にさしかかった自分が日々に氷柱を眺めて暮らすなど思ってもみなかった。
古参の氷柱は巻き込まれながら生き延びる
新しく降った雪が「この老いぼれめ!さっさと落ちやがれ!」と意地悪するのかどうかは知らないが、新たな雪の重みで古参の雪はずり落ちる。「落ちてなるものか!」とその際に歯を食いしばるのかどうかもこれまた知らないが、古参の雪が必死にしがみつくのは確かなようで、軒の内側に巻き込むような格好で「屋根雪」として生き延びる。となるととばっちりを受けるのは氷柱で、ピシッとまっすぐ育ったにもかかわらず、出どこでつながっている雪の行方に引っ張られてグイッと進路を変更せざるをえない。中には壁や窓にぶつかり志なかばでパキッと折れるものもある。すると悲しいかな、かつて自身が伸びていたすぐそこの軒先に、新しい雪から初々しく新しい氷柱がまっすぐ生まれてくるのだ。こうした悲喜こもごもを経て、氷柱の複雑な生態系ができあがる。
「サタデー・ナイト・フィーバー」
ジョン・トラボルタ主演の「サタデー・ナイト・フィーバー」がヒットしたのは中学2年で14歳の夏だったと記憶するから、今からすると43年半前のことになる。なぜそんなことを思い出すのかというと、散種荘の近くに街灯が1本あって、夜それに照らされた氷柱がなんとも「ナイト・フィーバー」ななまめかしい雰囲気を醸し出す。それにつられて、このところフランスのテクノデュオ Daft Punkの「Random Access Memories」ばっかり聴いている。ディスコミュージックを作った先達たちを実際にフューチャーして作られた2013年発表のファンキー極まりない作品だ。ほろ酔いで心地よく踊らされてしまう。これも氷柱のせいだ。
「with 氷柱」の新しい生活様式
2月7日から概ね晴れた。屋根雪がズリズリ下がって窓に覆いかぶさっているのも実感していたし、一部が力つきて「ドスッ」と落ちる音も聞こえていたから、もう時間の問題とばかり思っていた。しかしこの冬3度目の大雪が降り始め、屋根雪は寿命を永らえたようだ。氷柱の生態系もますます複雑化しているに違いない。まあ、新しい作りなので雪の重量に屋根はまだ耐えられる。姪が窓から手を伸ばして面白がってパキパキ何本も折っていたくらいだから、うち程度の氷柱に我々を脅かす凶器としての強度は備わっていない。危険なのは、これだけ積もった屋根雪が雪崩のようにごっそり落ちるその時に、タイミング悪くなぜかそこに身を置いてしまうことだ。しかしそれを防ぐためにこそ必要な一面に回廊をこしらえたわけだし、その反対の面にはそもそも積雪のため足を踏み入れることもままならない。だからよっぽどのことがなければ流れ弾にあたることもないだろう。ということで、こうとなったら氷柱の生態系を愛でて暮らそうじゃあないか。ああ、もうすぐ隠居の身。そうさな、あと半月ほどの風物詩だもの。