隠居たるもの、届いた訃報に言葉をなくす。新型コロナウィルスに感染していた志村けんさんが肺炎で亡くなった。故人が荒井注の後釜としてドリフターズのメンバーとなり、当時の子供には絶対的な番組「8時だョ!全員集合」に登場したのは、私が小学校4年のころ1974年あたりのことだった。あれから46年、熱心なファンとはいえないけれど、世に出てきた時からずうっと見続けてきたTVスターだ。騒がしい世情の中、ウィルス感染の発表から1週間も経っていない。大きな衝撃を受けている。
大爆笑は明後日の方向からやってくる
ドリフターズのメンバーとなり「8時だョ!全員集合」に登場したばかりの志村けんさんはつまらなかった。生意気な小学生の間でも「すわしんじ(ドリフファミリーで「8時だョ!全員集合」でブルース・リーのモノマネや“馬のいななき”をギャグにしていた)の方が面白い。あっちをメンバーにしたら良かったのに。」などと囁かれていたくらいだ。だがしかし2年後の1976年、東村山音頭がすべてを一変させる。以来、「8時だョ!全員集合」が終わってからも彼はずっとスターだった。このところは冠のバラエティ番組も持っていたようだが、トークが苦手なのか主戦場はコントだった。たまたまチャンネルを合わせて、あからさまなセクハラをギャグにしていて後味悪く思うネタも多々あったが、はまってしまって涙を流して笑いを止められなくなるものも同じくらい多々あった。思い出すに、柄本明と演じた“お呼びがかからないベテラン芸者ふたりの控えの間”というコントは破壊的だった。的外れであったとしても門外漢のたわ言とご容赦願いたい。“ズレたシュールなシュチュエーション”それ自体を笑いのタネとして「クスクス」という感じのこのところのコントと違い、“ありふれたシュチュエーション”の中で繰り広げられる人間模様を戯画化誇張することで、根こそぎ今日この場をぐらつかせてくつがえしてくれた。
タバコの煙を吐きながら、志村けんは「あ、そう。うん。」とうなづいた
ひょんなことから、ほんのわずかの間ではあるがアイドルの運転手をしていたことがある。当然にとっても若いころのことだ。32年前のその日の仕事は「カトちゃんケンちゃん」の収録送り迎え。子供のころからずっと見てるんだもの、アイドルに頼み込んでご両人に会わせてもらった。志村さんはうかがうようなあの特徴的な流し目で自己紹介をする私を一瞥し、くわえ煙草のままぶっきらぼうに「あ、そう。うん。」とうなづかれた。シャイなイメージそのままでなんか嬉しくて、今でも酒席のネタにする想い出話である。その志村さんが逝った。やりきれないのは、誰もが知る著名人の死がこの殺伐とした時節の中あまりに衝撃的であるために、それをすぐさま利用しようと浅ましい者たちが群がり始めたことだ。例えば「中国に殺された」とここぞとばかりに吠えたてる者がいる。一方で「無策だった安倍政権に殺された」と息巻く者もいる。志村けんは、この3月のどこかで新型コロナウィルスに感染し、残念でならないがその果てに肺炎で亡くなった。それ以上でもそれ以下でもなく、そういうことだ。故人を悼み敬意を表し、自身の主張を補強するためのエピソードとして利用することは慎もうじゃないか。それは政権にある者にしたって同じだ。
昼に新橋の蕎麦屋で
いまだ隠居にたどり着いていない我が身、今日の昼に急がなければならない仕事があって新橋でお客さんと落ち合い、先方の馴染みの店で昼食をとりながら話すことになった。「どれくらいぶりになりますかね?」というくらい顔を合わせてなかったし、夜に飲むのが許されない今日この頃であるから「昼だけど軽くやるか」となり、アジの唐揚げやタコブツなどを注文してからマスクを外しくつろいだ。志村さんが逝ったこと、もちろんそれぞれの「鬱々とした心持ち」について話題は及ぶ。「非常事態宣言が出されるのは明日3月31日の夜か4月1日って噂が出てる」なんて事情通からの話もあった。その根拠は、財界が年度末に株価がこれ以上に下がるのを嫌って、本当のところは出すべき「宣言を年度が変わってからにしてくれ」と政府に要請したからだという。それが本当かどうかはあずかり知らないが、この期に及んで悠長に「お肉券」なんて検討している人たちである、「ありうる」という疑念が生まれるのもいたし方ないだろう。こんな時に、渦中の病で逝ったスターがあまりにも気の毒でならない。まだやれただろうにとも思う。だからこそ「できうる限り平静を保って暮らそう」そう誓って私たちは別れた。
ああ、もうすぐ隠居の身。子供のころから見てきたスターを静かに悼む。