隠居たるもの、時に粛然と庵に佇む。そもそもこのウィークエンドは、どうにも避けられないこともここぞと急ぐこともなかったから、ゆっくり庵にこもって過ごすことにしていた。そんなところに、水曜日の晩からのこの騒ぎだ。小池百合子東京都知事が週末の外出自粛を緊急で要請するにいたり、新型コロナに怯える世情はやおら浮き足立つ。いまだ隠居にたどり着いていない我が身が通う勤務先からも、木曜日の午後には「しばらくの間、会社には来るな」とのお達しがあった。「やれやれ、これはひどいことになるだろう」と容易に予期された通り、近隣のスーパーはどうやら大変なことになったようだ。つれあいは憤慨していた。

やっぱり木曜日の朝から長蛇の列

“穏やかさ”をパブリックイメージとしている彼女がここまで怒りをあらわにすることは滅多にない。「もうレジは長蛇の列よ。まあそれはそれでいいさ、昨日の今日だから仕方ない。でも、すぐ後ろのおばさんがうるっさくてひどくって…。振り返って何度も軽蔑の眼差しを向けるんだけど、そんな人だから気づくはずもさらさらなくて…。」大きな声を発して、腹立たしくも携帯電話で延々と話し続けていたそうだ。

必要な食材をその都度に買い求める50代後半ふたりの侘び住い、インスタント食品を含めて常備というような食品を置いていない(本当のいざという時に備えてアルファ化米は少し蓄えているけれど)。パニックになって必要以上に買い占めをする人がいる。日が変われば台風19号がやってくるという10月のあの夜だって、飛行機が飛ばなくなった旅行先の四国からほうほうの体で帰ってきてなんとかその日のうちにスーパーに立ち寄れたものの、陳列棚から根こそぎ商品が無くなっている光景を前にして愕然とした。嬉しそうに危機感を煽る小池都知事の会見を見ながら夫婦はこう話した。今すぐってのはなんだけど明けた午前にはスーパーに出向いて、本意ではないがこの週をなんとかやり過ごせるくらいの食材といくらかのインスタント食品くらいは手に入れておかねばなるまい。

あっちのスーパー、そっちのスーパー、こっちのスーパー

普段こんなに混むことのない木曜の午前、誰もが普段より多く買い込むためにより時間がかかるレジ待ちの長蛇の列、つれあいからすれば飛沫感染しそうなすぐ後ろの近距離で、マスクをしていたとはいえ60代と思しき元気な女性が、携帯電話に向かってずっと大きな声を発っしていたそうだ。

「どこのスーパーもそりゃあすごい列。ライフにもマルエツにももうほとんど何もないわよ!それがね、ここにはまだあるの。カップラーメンだってあるのよ、138円だったわよ。」

え?すでに3軒目?何をそこまでして買い占めたいのだろう、とつれあいは各商品の値段をそらんじる彼女のカゴを盗み見た。入っているのはなんとチャーシューとしめじのふたつだけだった。事情通であることを誇示するために、彼女はさらに声を大きく張り上げたという。

「チラシでチャーシューが特売だったからここには来てみたんだけどね。」

パニックレジャーしてんじゃねえよ

パニックの渦中で興奮してなぜか面白がってるんだろう。彼女から知らせを受けた人はそのまた友だちを連れだってこのスーパーに押し寄せてくるんだろうか。彼女の後ろに並んでいた同年輩の女性が彼女に尋ねる。「ライフにはもう何もないんですか?」彼女は「そう、何もないのよ!」と状況を喜び勇んで説明する。彼女はレジを終え、会話をした女性を待って、「お近づきになれて嬉しかったわ」とわざわざ声をかけて店を離れたそうだ。侵食まで試みる彼女に辟易したあまり、つれあいは「パニックレジャーしてんじゃねえよ!」と仕事中の私にメッセージを寄越す。こうしてスーパーは必要以上に混雑し、熱狂を呼んで陳列棚という陳列棚から商品が消えていく。買い込みすぎて、消費期限をまたぐフードロスをこの人たちはたくさん出すに違いない。必死になって汗水たらしている医療関係者をはじめとして、こんな時でも多くの人が働いている。パニックをレジャーとして楽しむ人たちが、そうした人たちに思いをいたすこともなく、そうした人たちが買い物になんか来れない午前中に、そうした人たちも必要としているものをむやみやたらに消尽していく。とても恐ろしいことだ。

メルケル首相のテレビ演説

ドイツのメルケル首相が、新型コロナについての状況理解と対策への協力を求めるために行ったテレビ演説がとても感動的で、今ここに欠けているものがいったい何かを教えてくれる。ただ要請するばかりではない「生きた人たちの話」のその中にこんな一節があった。

「ここで、普段滅多に感謝されることのない方たちにもお礼を言わせてください。このような状況下で日々スーパーのレジに座っている方、商品棚を補充している方は、現在ある中でも最も困難な仕事のひとつを担っています。同胞のために尽力し、言葉通りの意味でお店の営業を維持してくださりありがとうございます。」

言わずもがなである。この状況下において、やっていいこととそうでないことの分別はわきまえている。これまでも、外で飲むにしたって相手との距離が取れるスペースのある店を選んで少人数でつつましくやっていたもの。思考を巡らせようじゃないか。ああ、もうすぐ隠居の身。そして落ち着こうぜ。

*コロナウィルス対策についてのメルケル独首相の演説全文:https://www.mikako-deutschservice.com/post/コロナウイルス対策についてのメルケル独首相の演説全文

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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