隠居たるもの、見慣れた街で膝を打つ。昨日、所用あって錦糸町を訪れた。仕事で今朝に東海地方に出向くことになり、月曜で週頭だし当日では新幹線の切符売場もさぞかし混雑するだろうから、あらかじめ購入しようと最寄りのJR駅 錦糸町に散歩がてら足を向けたのだ。たまたまとはいえ、今朝のJR決済トラブルを鑑みるとうまく立ち回ったものだ。我が庵は錦糸町からすると南にあたり、南口のみどりの窓口を目指すと場外馬券売り場周辺を突っ切る格好になる。日曜日である、いつものごとく、一帯はそれらしく賑わっていた。
なぜか愛しのギャンブラー
私はギャンブルを一切しない。中学1年の臨海学校でやらないことに決めた。房総半島の突端に向かうフェリーの上で、生意気にも小遣いを賭けてポーカーをしていて、船上であっという間にすってしまった。今からすると13歳の小遣いだから可愛いものなんだけれど、小僧はすっかり頭を抱えた。自らの下手さを呪ってではない、自らの熱狂ぶりが空恐ろしかったのだ。「手を出すと間違いなく身を持ち崩すだろう」と自身の素養を判断し、ギャンブルにだけは関わるまいと心に決めた。以来、興味を持つことすらなく過ごしている。しかし、浅草や錦糸町に親しんで成長する過程で、競馬新聞を握りしめて場外馬券売り場に群がるおじさんたちを避けては通れず、ではそれを疎ましく考えていたかというとそういうことはいささかもなく、その必死さをむしろ微笑ましく、いやその必死さに愛しさすら感じていた。
「個」の居場所
場外馬券売り場の周辺は独特な雰囲気を醸す。私はギャンブルをしないくせに、そこに居心地の悪さを感じない。いつだってニヤニヤしながら好んで通り過ぎてきた。なぜなんだろう?先日、アーティスト集団Chim↑Pomのリーダー卯城竜太と、やはりアーティストの松田修が語り合う「公(こう)の時代」(https://www.adfwebmagazine.jp/art/public-era-book/)という書籍を読み終え感銘を受けた。素晴らしい本だ。その直後に錦糸町の場外馬券売り場を通り抜けたことで、その内容がさらに具体的にすっかり腑に落ちた。おじさんたちは「解放」されているのだ。どことなく後ろ指をさされそうな彼らの“業”は、ここに来れば解き放たれる。私が馬券売り場の風情を好むのは、その様子が伝播して、自然に私自身も「解放」されるからなのだろう。今から思うに、12月に「上野に残るいかがわしい匂い」(https://inkyo-soon.com/ueno-smell/)という省察に記した雑感も、同じところに根を張っているに違いない。
上からか下からか
東京はオリンピックを口実に再開発の真っ最中だ。人口が減るというのにデカイ箱ばかりこしらえてはた迷惑な話だが、いくらかは恩恵も受けている。日本橋のCOREDO室町にTOHOシネマズができて便利になった。買い物はほぼ決まった店でしかしないから、丸の内にそれらがまとまっているのはありがたい。しかし、この再開発でできた「街」で私はニヤニヤしたりゾクゾクしたりしているだろうか?それはない。用事を終えたら早々に立ち去り、清澄白河に嬉々と帰ってくる。一度だけ行ってみた渋谷ストリームなぞ、よっぽどのことがない限りもう足を踏み入れることもないだろう。なぜか?それはこれらの再開発が、大手資本と広告代理店が主体になり、集う人々の階層も含めたマーケティングの末に上から「作った」、消費を促すばかりのどこも大差のない「空間」だからだ。「解放」どころか、事前検閲を経てから与えられるものに「囚われ」るばかり。それに自分を合わせて満足しろって言われても、味気なくてまったくもって踊れないやな。例えば、かつての新宿は面白かった。いろんな人が集まって、自然に下から「できあがった」雑然としたカオスが調和して、多くの人が「解放」されていた。そこは新宿でしかなかった。
庵を置く清澄白河は、ここ数年でどことなく新しい街並に変わりつつある。幸いなことに、それは若者たちが「資本」に頼らず勝手に面白がってやってるからのようで、「できあがって」いる過程こそが今なのかもしれない。楽しくパトロールさせてもらっている。それぞれの「個」が「解放」される場であるといい。
「公の時代」、40歳そこそこの2人がアートを中心に様々と語りながら、まとわりつくような「閉塞感」の正体をあぶり出す。刺激的で目のウロコがボタボタと落ちた。よくわかった。私は「オシャレ」な場所が嫌いなわけじゃない。ああ、もうすぐ隠居の身。そう、自由でいたいんだよ。