隠居たるもの、おっとり刀で露払い。2021年10月8日から11日まで、曜日にして金曜日から月曜日まで、つれあいの郷里 熊本に身を置いていた。前段でも紹介した通り、つれあいの帰省にお供するのは2年8ヶ月ぶりだ。もちろん新型コロナを警戒していてすっかりと間が空いたわけで、一緒になって以来、ここまで長きにわたって訪熊(ほうゆう)することなく過ごしたことなどない。高齢のつれあいの両親のことは気にかかるし、環境が整ったならば、郎党の中でもっとも身軽な私たちが一番乗りおっとり刀で駆けつけるのが当然と考えていた。そこに横槍が入る。いまだ祖父母にひ孫を披露できていないことを気に病む姪夫婦が、「自分たちもまぜて訪熊の日程を考えてくれろ」というのだ。殊勝な心がけである。登場人物全員の準備(ワクチン接種2回目から2週間を経ての抗体形成)が整う最短の10月8日に照準を合わせた。まずは私たち夫婦が露払いとして熊本に降り立つ。

「ただいま」のひとことで、メロン坊やが曽祖父母の心を鷲掴みにする

10月9日正午過ぎ、私たち夫婦が一晩かけて場を温めておいたところに、サッカー部後輩・姪・メロン坊やの御一行が到着する。家の前でタクシーから降りるなり再会を祝してやいのやいのとにぎわう大人、それを見上げていささかキョトンとした風情の2歳と1ヶ月のメロン坊や、父母に促され曽祖父母宅の敷居をまたぐやいなや、なんと元気な声で「ただいま!」と挨拶した。家に帰った(つまり入った)ときには「ただいま」と挨拶するよう両親からしつけられているのだろうが、曽祖父母の家に入った瞬間に、ここがさも自分の家であるかのように「ただいま!」という絶妙な単語を選択するとは…、簡単にできることではない。こいつは本当に手練手管に長けている。初めて目の前にする、目をクリクリさせてニンマリするひ孫のその笑顔に、曽祖父母は見事に心を鷲掴みにされた。

「熊本城でブラタモリ」

ゆっくりとした昼食をとってから、高齢の両親を残し、私たちと御一行は復興が進む熊本城の見物に出かけた。あの大地震直前のブラタモリは、偶然にも2週にわたって「熊本城」と「水の国・熊本」だったことを思い出す。天守閣は見事に再構築なったものの、熊本城全体の中では崩れたままの石垣や割れたままの白壁が今も随所に残る。復興工事が完全に終わるのはメロン坊やが歴史を真剣に勉強し始めるころになろうか。そうとも知らないメロン坊やは、途中で拾ったどんぐりがいたくお気に入りで、「どんぐり!」と叫んでから握っているそれをわざと落としてはラグビーボールのように不規則にはねる様子をしばらく観察、そして追いかけて再び自分でつかみ上げ、そんなことを何度も何度も繰り返して身悶えして笑っている。この日の熊本は最高気温32℃、肥後もっこすたちが「10月にもなってこんなことは今までになかった」としきりに嘆く常ならざる陽気だった。それもあってすっかり疲れてしまったのだろうか、途中に日陰のベンチでぐったりと横になったおじさんがいらした。このところ色の名前をたくさん憶えたメロン坊やが、一瞬「おおおじがねてるの?」と訝しむ。シャツの緑色に敏感に反応したのだろう。この子の教育のため、私は身をもって「対称」という概念を示しておいた。だが安心したまえ、大叔父は「ジェントルマン」と呼ばれることの方が多い。

綺麗な水の湧くところ

10日の朝、小学生の時に熊本を離れたつれあいが「こんなに近くにあるのに行ったことがない」から実家近くの熊本市動植物園に行ってみたいと言い出した。お義父さんが「え?連れてってあげたじゃないか…」と悲しい顔をする。つれあいよ、笑ってごまかしている場合ではないぞ。予想されていたこの日の最高気温は33℃だが、喪失している記憶を取り戻すためにも、私たちは歩いて動植物園に向かった。電車好きのメロン坊やに九州新幹線を見せると朝から熊本駅に出向いていた親子3人とも現地で合流することになった。待ち合わせをした資料館の魚スペースで落ち合うと、予期していなかった私たちを見つけたメロン坊やが興奮を爆発させる。その姿が愛おしく、つれあいは記憶を取り戻して「親の恩」を思い出すことを(またしても)すっかり忘れてしまうのだった。

つれあいの父方は少しだけ熊本市をはずれた六嘉という地の出だ。代々受け継がれている本家が今もそこにある。つれあいは子供のころいつもここで遊んでいたし、つれあいの兄の長女である姪も小学生の時分は毎夏ここではしゃいでいた。水の国・熊本の中でもとりわけ綺麗な水が湧くここ(名水百選にも六嘉湧水群・浮島で選出されている)には、無料開放された天然自然湧水プールがある。水泳選手として国体にも出場したお義父さんにとって、かつて鍛錬に励んだこのプールは聖地であり(自然湧水だから冬の水温は外気より暖かく、だから冬でも合宿を張ったそうだ)、つれあいと姪にとっては抜きさしがたい夏の「原風景」だ。殊勝にも本家への挨拶とお墓参りを主目的として訪れたがった姪にとって、季節外れの酷暑はむしろ幸運だったかもしれない。10日の午後、田んぼの中に現れるプールには子供たちの嬌声が響き渡っていた。メロン坊やも隅で足をパシャパシャ水につけて喜んでいる。これで親子4代というわけだ。

しつけているつもりの私たちは、実のところしつけられているのかもしれない

10日の夜、広々とした宴会場に10人と少しの親族が集まって静かな宴席を持った。蛮声を張り上げるような人もいなければ、準備(ワクチン接種2回目から2週間を経ての抗体形成)も整っているわけだから、せっかくの機会と踏み切ったのだ。この親族の方々と顔を合わせるのだって2年と8ヶ月ぶり、物怖じしないメロン坊やは終始ゴキゲン、楽しい一時となった。セッティングしてくれたことや声をかけてくれたこと、そして出向いてくれたことに「今日はいろいろとありがとうございました」と誰もがにこやかにお礼を交わして別れる。私たちはというと、みんなで連れ立ってつれあいの実家にいったん戻る。少し落ち着いてからメロン坊や御一行は宿泊先のホテルに向かう。タクシーが来たからと玄関に下りたとき、2歳と1ヶ月のメロン坊やが頭をペコリと下げてこうのたまった。「きょうはいろいろとありがとうございました」じっと見ていて覚えたのだろう。曽祖父母は悶絶した。

11日、若い親族が忙しい中わざわざ教えてくれていたラーメン屋でせっかくの九州ラーメンを食したのを最後に、私たち東京組は一緒に羽田に帰ってきた。メロン坊や御一行とは近所で暮らしているものの、熊本での食べ疲れから夕食は共にせずリムジンバス停留所で別れることにした。メロン坊やが手を振りながら「バイバイ、またこんどね、きをつけてね」と私たちを気遣う。しつけているつもりの私たちは、実のところしつけられているのかもしれない。ああ、もうすぐ隠居の身。熊本の灼熱の太陽で、私の肌はまたこんがり焦げてしまった。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です