隠居たるもの、古くからの友に気心知れる。いまだ隠居の身にたどり着いていない我が身ではあるが、「もうすぐ」というこの歳頃にこそ、それを痛感するものだ。幸いにも、同じように思っているだろう友人たちに恵まれた私は、なんだかんだと用事をこさえては(それぞれの親の葬儀等もあるが)、13歳の頃から続く“こいつら”と、損得抜きで遊んでいるのである。その中に、1977年4月、42年前の中学1年E組で一緒になったヤスがいる。

木根川橋の向こうとこっち

ヤスは葛飾区の四ツ木に住んでいた。私は墨田区の白髭通り沿いに住んでいた。あのころの東東京は、本当に殺伐としてガラが悪く、まさに“ストリート”だった。なんてたって、金八先生の「腐ったミカンの方程式」の舞台だもの。それにひきかえ私立中学受験は今ほどの活況を呈してはいなかったから、「なんとか入れそうだし、地元の公立中学に行かすとロクなものになりそうもない」とそれぞれの親に判断された私たちは、めでたく港区で同級生となる。以来、荒川をはさんで木根川橋の向こうとこっち、タバコを吸うのもパチンコしてみるのもディスコに行くのも、おっかなびっくり連れだってやったものだ。16歳の時、ジェフ・ベック観に武道館にも一緒に行ったな。

ポキポキと痩せっぽちのヤスは

喧嘩っ早かった。すぐに喧嘩のタネを作る。それを回収する滅法強い友人がいた。そうして無法者を懲らしめているうちに使命感に目覚めちゃったのだろうか、彼は現在、どこぞの警察署の署長をしている。ヤスは「学問は向いてないから」と美容師になった。今は葛飾区の青砥駅近くで、家族で美容院を営んでいる。だから、彼に髪を切ってもらうために、月に一度は必ず荒川を渡る。ヤスが酔っ払ってジョナサンの階段で転げて、美容師なのに肩甲骨を折って休養せざるを得なかったときだって、伸びる髪を持て余しながら「しょうがねえなぁ」と回復を待った。

陽気のいい5月GWに、木根川橋を自転車で渡る

GW最終日、40年前さながら、ヤスのところに行くのに自転車にまたがってみた。今の住まいは江東区は深川。猿江公園を経て亀戸天神へ。墨田区に入って東武亀戸線小村井駅を横目に中井堀を抜けて八広をつっきり、あの頃と同じく木根川橋にのぼってサイクリストの聖地 荒川を渡る。葛飾区に降り立ってからは京成線沿いに四つ木、立石、青砥と順を追う。うっすら汗かいて40分。GWは繁盛したそうで、相変わらず痩せっぽちのヤスは私の髪にハサミを入れながらもうヘロヘロ。なのに次に予約を入れている人も雑誌を読みながらすでに待っている。なんだ、やっぱり元の中学1年E組の友人だった。しばし連中の近況などを確認し合う。風向きが変わってすっかり向い風になるものだから、帰り道は往生した。

考えてみれば果報者である。

刈りにいくだけの髪がまだあるのだから。今日、「来週に寄る」と我らが浮世床に予約を入れた。電話で応対してくれたのはヤスの娘。正義の味方なんていないことも、世界が「正義」ではなくて「利害」で動いてることもうすうす分かっている。だから、月に一度の髪を切る機会が、計算することなく他愛のない時間になるのが嬉しい。また、ゲラゲラ笑い合えることを楽しみにしてる。だからといって、何を話したかは覚えていないんだけど。

ああ、もうすぐ隠居の身。それでいいだろう。また飲もうぜ。

タイトルの元ネタ:なぎら健壱

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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