隠居たるもの、梅雨を招じる里帰り。今年2024年の梅雨入りは遅い。義父母のご機嫌うかがいに6月15日から18日にかけて熊本を訪れようと計画した当初、誰にともなく「梅雨の真っ只中に違いなかろうが、別段行楽に出かけたいところがあるでなし、雨もまた楽しからずや」などと必要のない見得を切っていた。その梅雨に一向に入らない。となると大仰なセリフ回しがいささか恥ずかしくもあり、「『あるでなし』というのは『あるようでない』ということ、そして『楽しからずや』は『楽しかろう』の未然形『楽しから』に打消しの助動詞『ず』と係助詞『や』をつけたもの。そうやって『 楽しくないのか?いや、きっと楽しいだろう』といったそこはかとないニュアンスを漂わせているのさ」などとやはり必要もない注釈をして「据わりの悪さ」を誤魔化そうとする。なにはともあれ6月15日午前10時00分、薄曇りの羽田空港から私たちは熊本に飛び立った。
鶴の恩返し
「なんかミシン仕事が色々あるらしいのよ」とつれあいが言う。お義母さんから頼まれているのだそうだ。長年にわたって衣服づくりを生業としてきた彼女である、ミシン使いはお手のもの。とはいえ実家の2階に鎮座する古くて重い足踏みミシン、陽が射す窓辺で「自転車を漕いでるみたい」と四苦八苦。その様子を私が「鶴の恩返し」と茶化すと、部屋に入ってきたお義母さんが「見てはいけなかった?」と顔をほこらばせて笑う。つれあいの実家を訪れるのは7ヶ月半ぶりだ。ミシンを踏めない義理の息子は「いやあ昔ほど飲めなくなりましたよ」とおどけながら、夕食の席でお義父さんに勧められるままたっぷり酒を飲んでみせる。それはそれで親孝行というものだが、やはり還暦の身にはToo Much、「街に出る明日の昼はこりゃ熊本ラーメンだな…」などとひとりごちる。「梅雨入り瀬戸際の晴天」と予報された翌日16日、私たちは街まで足を運ぶことにしていた。目指すは長崎次郎書店である。
熊本で密かに本屋さん巡り
仕事がらみで接点を持ったみすず書房の方に「へえ、奥様の里帰りでよく熊本に行かれるんですか。それなら上通りにある長崎書店にぜひ立ち寄ってみてください。なかなかお目にかかれない、本当に素晴らしい本屋さんですから」と紹介されたのがきっかけだった。長崎書店の所在は熊本城を見上げる街の中心部、そしてみすず書房はこの国を代表する良心的出版社だ。昨年来「さすがはみすず書房」と感嘆している本がある。すでに5年半前に購入し読了している「ガザに地下鉄が走る日」だ。そんな出版社に長きにわたって勤務する方が太鼓判を押して紹介しておられるのである。
「ガザに地下鉄が走る日」は、2018年11月にみすず書房より出版された。東京外国語大学卒業後にカイロ大学にも留学したアラブ文学者 岡真理さんのパレスチナをめぐる思索の書だ。今となって思えばどれだけ示唆的だったろうか。出版されてから相応に時が過ぎているが、これ以上正確に彼の地をレポートする書は今もなく、イスラエルによるガザ侵攻以来、多くの書店であらためて平積みとなっている。2023年4月より早稲田大学文学学術院文化構想学部の教授に就任された岡さんは、同時に京都大学名誉教授でもある。どこかの知事選で再選を狙っている緑色の服を着た方と違って、もちろんアラビア語を堪能に話すこともできればカイロ大学留学に疑義を挟む余地もない。
初めて長崎書店を訪れたのはいつの日だったろうか。地方都市の書店であるからそれほど大きいわけではないけれど、知性と見識が滲み出るような本がぴっちりと棚に並んでおり、その眼力に唸ったものである。この1889年創業の長崎書店の本家筋にあたるのが、1874年創業の長崎次郎書店だ。それを知ってからというもの、訪熊(ほうゆう)の徒然、両店ともうひとつ魅力的な橙書店という3つの本屋さんを、散歩がてらたびたび巡るようになった。なのにその一角、老舗中の老舗、長崎次郎書店が6月いっぱいで店を閉めるというのだ。
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20240524-OYTNT50087
長崎次郎書店の店じまい
売上の主力である雑誌が売れなくなった。中心購買層たる若者は電子版で充分だから「紙」の雑誌を買わない。初老にさしかかった私たち夫婦なぞ、そもそもからして雑誌を手に取ること自体が少なくなった。となるとキャッシュレス決済が一般化した昨今、その度に決済業者に支払わなければならない手数料もますます重荷になる。その他にも光熱費を含めたランニングコストの高騰、再販制度があるから売れ残ったものは返品できるといっても「24年問題」のあおりを受けて配送業者の値も上がる、そして働き手の減少と人件費の…、などなど。そうしたことを総合的に判断して書店はいったん休業することにしたそうだ。文化財指定されている建物はもちろん残し、2階の長崎次郎喫茶室はこのまま継続し、書店だった1階スペースをどうするか模索するという。街の本屋さんがひとつひとつ姿を消していく。悲しいことだ。
本はなるたけ本屋さんで買おう
配信では飽き足らず音楽においては結局レコードを買ってしまうのと同じく、本を選ぶに際して私は電子版でなく必ず紙の現物を買う。かつてほど売れなくなった今日、確かに書籍は高くなった。学生時分から残している文庫本の値段を見てその破格に驚愕することもある。しかしそれでもだ、そこそこの数を買って読む私にしたって年間10万円を超えるのは至難の業。たとえばゴルフなんかと比較したとき「お金がかかる嗜み」とは一概に言えまい。しかも読み終えたら誰かに貸したり後輩に進呈するなどして知識と見識を共有することだってできる。
本屋さんでじっくり本を探すのが好きだ。下の写真は今回久しぶりに熊本の3軒を巡って買いそろえたものだが(知人である版画家 坂本千秋さんの猫のポストカード1枚を含む。そういえば長崎次郎書店で個展をするって知らせを目にしていたっけ)、「あ!翻訳されていなかったジェスミン・ウェードの処女作がようやく!」こんな刺激的な発見こそ本屋さんの醍醐味だ。Amazonばかりで本を注文していると、アルゴリズムってやつで「あなたはこんなのが好きでしょ?」と似た傾向の本ばかりをAIに紹介され、面白がってそのうち偏り、気がつけば抜き差しならず陰謀論に染まっていたりする。なにも好んで偏狭な世界で生きることもあるまい。
明日になったら東京に帰るという6月17日の夜、熊本に強い雨が降った。「平年より2週間遅れであるが、これをもって梅雨入りしたみられる」とテレビは伝えていた。学生のころ読んだ本に寺山修司の「書を捨てよ 町に出よう」がある。あの当時に彼が「捨てよ」といった「書」を今現在に置き換えてみると、それすなわちスマホやPC、そういうことなのかもしれない。彼が死んだのは47歳だった。すでに私はひとまわりも年上になっている。熊本で巡るべき本屋さんが2軒になってしまうこと、かえすがえすも残念だ。ああ、もうすぐ隠居の身。町に出よう、そして書を探そう。