隠居たるもの、年季が入ったハガシのさばき。2024年6月21日午後6時45分、深川は森下の交差点、古くからあるお好み焼き屋 どんどん亭、うっすら熱を帯びた鉄板を前にして、私はビール片手に友人たちの到着を待っていた。ここいら辺にゆかりのある者たちがみな「もんじゃならどんどん亭」と口をそろえる人気店だ。子どもづれやカップルで混雑し始めていて、残る鉄板はあと二つ。近隣で暮らしているラテン系の近親者と思しき5人づれが友人たちより前に入店し、残ったうちのひとつに座を占める。もうそろそろ着くであろう文学部ドイツ語Q組の同級生たちに「そうそう、言っとくけどこの店、ビートルズしかかかんない」とLINEを送る。

どんどん亭:https://tabelog.com/tokyo/A1312/A131201/13018005/

森下でもんじゃといえばどんどん亭

黒赤黄、エントランスに設られたテントの配色はドイツ国旗そのままだ。なにかしら由来があるのか聞いたことがないから知る由もないが、ドイツは今、サッカーヨーロッパ選手権の真っ最中、日々に熱戦が繰り広げられている。前回W杯で日本に敗れた代表チームもすっかりと若返りを図って勝ち進み、自国開催に花を添えている。なもんでこの配色を目にするとヘンデル作曲のドイツ国家がどこかから聴こえてくる。しかし店内に流れるのは徹頭徹尾 ザ・ビートルズ(前期後期まんべんなくシャッフルするその手管は有線の専門チャンネルに違いない)、そして壁にずらりと貼られているポスターもザ・ビートルズ。なのに調度を含めた店内の雰囲気はアーリーアメリカン。なんとも不思議な店である。しかし、ずっと二人で切り盛りされてきた、人がよく優しそうな老夫婦に接客されているうち、なぜかしっくりと落ち着いてくる。そんな店の一番奥に位置する鉄板を、合計すると240歳になる還暦凸凹の男4人でミチっと囲む。この面子でもんじゃをつつき合うのはおよそ40年ぶりになる。

「もんじゃの伝道師」

もんじゃとは、ゆるく水溶きした小麦粉をソースで味つけし鉄板で調理して食べる東京発祥のローカルフードだ。月島に「もんじゃストリート」なるものができあがってからというもの、今や日本各地そこかしこに店を見かける。しかし40年ほど前までは、東京の隅田川の東向こう「下町」と呼ばれる一帯とその周縁でしか見られない、文字通り紛れもない「ローカルフード」だった。ことさらにもんじゃ好きでまだ幼く狭い世界しか知らなかった私は、どこにでも当たり前にある一般的な食べ物と疑いもなく勝手に思い込んでおり、中学に入学し電車通学するようになって他地域で暮らす同級生たちに「え?それなに?」と言われ心底から衝撃を覚える。以来「君たち、知らないままでいるのは一生の不覚である」とばかり「もんじゃの伝道師」となるのだった。

玉の井の美好に通ったあのころ

当時に暮らしていた地域にはもんじゃ屋さんがたくさんあって、私はその中のひとつ、永井荷風「濹東綺譚」の舞台である玉の井のとば口あたりの路地裏でひっそり店を構える美好に心酔していた。たしか小学4年生の雨が降る日だったろうか、それまで駄菓子屋で「今日はもんじゃを30円分ちょうだい」などと注文して焼いていた小僧っ子たちが、意を決してこの店の暖簾をくぐった。同行した友人の証言「お姉ちゃんが美味しいと言っていた」を頼りにしてのことだった。おずおずとしていた私たち3人を、他に客もいない平日の日中ということもあり、初老にさしかかった夫婦は優しく迎えてくれた。3人の所持金をひっかき集めてもベーシックなもんじゃ2杯分にしかならず、それを分け合って「うまい、うまい」とかきこむ私たちに目尻を下げてくださった。今から思えば、あのころのご夫婦は今の私と同じような年恰好だったかもしれない。

駄菓子屋の隅っこの鉄板で食べては年がら年中お腹を壊していたものだ。そもそも衛生状態が怪しいところに火力が弱くてなかなか焼けず、また子どもだからもう食べていいかどうかの判断もきちんとつかず、半生な焼け具合で口にしていたからだ。美好に通うようになって当然そうしたことはなくなった。もんじゃを知らない中学高校の同級生たちを、密かに「師匠」と呼んでいたご夫婦のもとに私は次々と連れ込んだ。ときには10人を超えて押しかけたこともある。ドイツ語Q組の友人たちもご多聞にもれず。大学に入学した40年以上前のこと、もんじゃを「知らない」というから「それはいけない」と布教に努めたのだ。今回みなでもんじゃ屋に集ったのも、ある意味そのころを懐かしんでのことである。

アップした写真2枚はもちろん美好ではなくどんどん亭で撮影したものだ。ご夫婦の引退とともに店は閉められた。ご存命ということもなかろう。あのころ駅名としても残っていた「玉の井」という地域の呼称は、色街だったことを思い出させるとして一掃され、味気ない住所表記である「東向島」に収斂され置き換えられた。そういえば22年前に引っ越しを余儀なくされたとき、美好の近くに建設中だった新築マンション購入も「慣れ親しんだ土地だから」と候補に考えたっけ。結局のところ高価な新築には手が出せず、私たち夫婦は深川の中古マンションに居を構えることになる。数年後その新築マンションは、姉歯秀次元一級建築士が構造計算書を偽造していたことが発覚し、すったもんだの末に取り壊された。

https://diskunion.net/portal/ct/list/0/303705

「Revolver」は「成り立つかな?」

どんどん亭で「And Your Bird Can Sing」がかかって、私が「ビートルズのアルバムの中でこの曲が入っている『Revolver』が一番好きだ」と言ったとき、「そうなんだ、なんで?」「前期と後期の架け橋だから」なんてやり取りにはなる。しかしいかんせん私たちは「主流派」ではないから「主流の中の主流」ザ・ビートルズでは会話が弾まない。むしろ友人の一人が「高校のときに突然段ボールを聴き合った同級生」について語るのを機に、44年前にデビューした埼玉県深谷の蔦木兄弟によるアンダーグラウンドバンド 突然段ボールの話で盛り上がる。説明の必要もなくこのバンドの話題に興じる飲み会というのもそうそうない。酒飲みなもので、つまみになるものを食べさせてくれる店ばかりを選んでいるうちにもんじゃ屋から足が遠のいていたが、美好からどんどん亭に河岸が変わったとしても、鉄板を囲んでみちみちと話し込む、これは悪くない。

突然段ボールの配信がApple Musicにあったので43年前のデビューアルバム「成り立つかな?」を聴いていた。つれあいが「これはなに?」と尋ねるから説明すると、彼女は「ふうん、今でも新しいね」と応える。「ディスクユニオンで調べたら、このアルバムの中古盤に未開封のやつがあって(いったん人手に渡ったけど開封されることなく中古市場に出回った新品ってこと)安かったんだ」とつけ加えると、彼女も平成の大横綱 白鵬を真似て語尾を跳ね上げながら「買ってもいいんじゃないか?」とつけ加える。ああ、もうすぐ隠居の身。だから雨が降る白馬の散種荘で、突然段ボールのレコードが届くのを待っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/突然段ボール
投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です