隠居たるもの、ついぞ校歌をくちずさむ。みなさんはバカボンのパパが通っていたバカ田大学の校歌をご存じだろうか。メロディーそのままにこう歌い出される。「都の西北 早稲田のとなり のさばる校舎は われらが母校」赤塚不二夫の「天才バカボン」に耽溺していた幼少のみぎり、劇中で歌われるこの校歌にわけもわからずゲラゲラ笑い転げていたものだが、考えてみればその時点でダイレクトに脳に刷り込まれでもしたのか、後に私はバカ田大学の隣の大学を志望し運よく入学する。そして卒業してから35年半が経った今も、ある同窓会の係などをしているものだから、ときおり母校に出向くこともあれば、年恰好の違う若い同窓たちと輪になって照れながら校歌を放吟することもある。銀杏がハラハラと舞い落ちる2022年の11月末と12月初旬、二週にわたって立て続けに2度、「都の西北 早稲田のとなり♫」と口ずさみ、私は母校を逍遥した。
文学部から穴八幡を横目に南門に向かう
文学部キャンパスとその他の文系諸学部がある本部キャンパスはいくらか離れており、溜まり場となっていたサークルの部室は本部キャンパス4号館にあったから、35年半前まで文学部の学生であった私は、授業に顔を出してから部室に出向くため、はたまた部室で談笑したあと授業に顔を出すため、この一本道を日々にチンタラ歩いたものだ。爽やかな晴天となった12月7日水曜日、約束の時間からずいぶんと余裕をもって母校に到着し、待ち合わせ場所である大隈会館1階受付まで、往時の道筋を辿って行き着くことをはたと思いつく。記念会堂が早稲田アリーナなんぞに建て替わったとしても、スロープを登った文学部校舎の佇まいがなんともそのままなのが嬉しい。
五木寛之が野宿していたという穴八幡の対角線、カツ丼発祥の店とされた三朝庵が閉店してから久しい(跡地の現在はファミリーマート)が、隣のキッチンオトボケは看板の色が変わっているものの健在だ。クラスメートとなった者と入学後に初めて昼食を共にしたのはこの店で、「専攻はどうするつもり?」とか話しながら確かミックスフライ定食を注文したと記憶する。まっすぐに進み、今もある高田牧舎の前の南門から本部キャンパスに入る。このあたりは法学部で、新築された高層校舎群がのさばりかえっている。通路前方、変わることなくキャンパスの中心に大隈重信の銅像が鎮座しており、そこから右手に開いた広場の先に大隈講堂が屹立する。そこから道をひとつはさんだ向かいの学生会館も建て替えられており、運動部のレプリカユニフォームなどを販売するアシックスショップが1階に入っている。かつての学生会館が革マル派の巣窟であったことを思い起こす。
正面には演劇博物館
それにしてもひっそり閑としたものだ。「今の学生は本当に授業に出てるんだな。昔は授業中だろうがなんだろうがいっつもキャンパスにはワサワサ人がいたもんだけどな」とはある先輩の弁。大隈銅像を横切り、まっすぐ歩いたつきあたりに坪内博士(坪内逍遥のこと)記念演劇博物館があり、その右手前が私たちの溜まり場だった4号館だ。学生運動盛んなりし1970年ごろに学生が占拠しそのまま怪しげなサークルの集合部室棟になったと聞いている。現在は隈研吾によるリノベーションを経て、国際文学館(村上春樹ライブラリー)へと様変わりした。あいにく水曜日が休館日にあたっていたため中に入ることはできなかったが、懇意にしている先輩が「あんなん大したことなんもない!」と吐き捨てておられたから、よっぽど暇なときの楽しみにとっておくことにする。さて、そろそろ約束の場所に出向こう。大先輩が一個人としてとてつもないオファーを大学側に出した。それを形にすべく、にぎやかしの一員として大学スタッフとの折衝に加わるのが今般の私の役目だ。
今や「日本一の女子大」
あれは2018年3月24日のことだった。そのときも同窓会の所要があって母校に足を運んでいたのだが、大隈講堂近辺に溢れるおびただしい数の人に度肝を抜かれた。「あ、今日は理工学部の卒業式なのか」と気づいたものの、それならそれであらためて驚いた。理工学部だというのに、女子でいっぱいだったからだ。仲のいい先輩たちとその頃に「『早稲田マン』という言葉は一般的に流通していただろうか?そもそも俺たちはそんなことを意識していただろうか?」と徒然なるままグダグダと議論していたのだけれど、世間では「慶應ボーイ」ほどに一般化していなかったその呼称、とっくの昔に「死語」になっていたのである。
1号館に早稲田大学歴史館というミュージアムができていて、そこに展示されている建学当時の写真には、追いはぎと見紛うナリをした者が多数いる。今日ではこれも死語に違いないが「バンカラ」をかろうじてパブリックイメージとしていた40年ほど前の早稲田は、文学部と教育学部の一部の学科を除けば「男」ばかりだった。早稲田といえば「マン」だったのだ。今や「勢力図」は塗り変わった。やたらと学生数の多い学校であるため、在籍する女子学生の数だけ見れば今や「日本一の女子大」なのだそうで、もうむさ苦しい大学ではないのである。加えて、卒業式には様々な国からやってきたと思われる留学生がずらりと並んでいた。「隔世の感」とはこのこと、なんとも嬉しい心持ちになったことを記憶している。
そんな喧騒からいくらか隔てられた、といっても普段よりは人の多い大隈庭園を横切ってリーガロイヤルホテルに向かいつつ、大隈講堂の写真を撮ろうかと思って振り返る。幼児が駆け回り、きらびやかな晴れ着や慣れないスーツを着た若者たちが遠くで笑い合っている庭園で、ヒジャブを巻いたイスラムの女性が、静かにそして穏やかに祈りを捧げていた。それは、とても美しい平和な春の情景だった。私はシャッターを切りながら感じたものだ、「世界はこうあるべきだ」と。
語らって楽しい人や、これからいっしょに遊ぶようになったら面白いんじゃないかと思える人、そんな人たちが集まる場を作るには、まず「同窓会」という枠組みを使うのが手っ取り早くて簡単だ。とりたてて愛校心が必要なわけでもない。「新たに作られ更新される共同体」これこそが魅力的なのであり、「あらかじめ用意された共同体」はまずもってろくなもんではない。大袈裟にいえば、その「あらかじめ用意された共同体」を体現する代表格がどこに出したって恥ずかしい我らが森喜朗大先輩であろうし、杉田水脈を政務官に任命するなど、それを守護すべく日々にせっせと腐心されているのが岸田文雄先輩に他なるまい。おそらく私は彼らと同じ「同窓会」には属していない。
メルシーこそはソウルフード
せっかくだから帰りがけにメルシーに立ち寄った。森繁久彌も好物だったというこのラーメン、私が学生だった時分は一杯300円、新型コロナ禍前の2019年には400円、万事において値が上がる現在はさすがに500円になっていた。私の目の前にパリッとした若者が座り「ラーだい」と注文する。ほほえましい、ラーメン大盛のことだ。その自然な感じ、ついこの間に卒業したばかりの若いOBに違いない。初老にさしかかったOBはラー大なんか食べちゃいけないから、予定通り可愛く「ラーメン」と注文しておいた。ああ、もうすぐ隠居の身。私たちにはメルシーの煮干しだしがすっきりとしみている。