隠居たるもの、「男は誰もみな 無口な兵士」なのだ。町田義人が歌う映画主題歌の一節である。久しぶりに観てしまったのだ、角川映画の最大ヒット作「野生の証明」(1978年)を。2021年の今年は、高倉健生誕90年にあたるそうで、WOWOWが健さん主演の映画をこの5月に特集している。だからといって他の作品は観ていない。私が観たかったのは健さんではなかったからだ。それは43年前公開の「野生の証明」だったのであり、そして今作でデビューした当時14歳の薬師丸ひろ子だったのだ。かくいう私も、彼女より1ヶ月だけ早く生まれた当時14歳だった。
「人間の証明」のテーマ:ママ〜♪ドゥ ユー リメンバー♬
ひと月前の2021年4月18日、例によって小名木川遊歩道をおにぎりを持って散歩していた。すると川面にクリーニング済のシャツがプカプカ漂っているではないか。私の耳にはどこからかジョー山中の歌声が、劇中で象徴的に使われる西條八十の詩「帽子」を歌詞に仕立てた、森村誠一原作 角川映画第二弾「人間の証明」(1977年)のテーマが聴こえてきた。
母さん、僕のあのシャツ、どうしたんでしょうね
ええ、春、大島から小松川へ渡る橋で、
川面に落としたあのカッターシャツですよ
母さん、あれは好きなシャツでしたよ
僕はあの時、ずいぶんくやしかった
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから・・・
本来の「帽子」を「シャツ」に、「碓氷から霧積へ」を「大島から小松川」に変換しつつ、私は映画「人間の証明」の哀切を思い出す。そしてそのまま続け様に、自然と「野生の証明」のテーマ曲を口ずさむ。その「野生の証明」をあれからひと月も経っていない5月13日に観ることができた。
「お父さん、怖いよ。何か来るよ。大勢でお父さんを殺しに来るよ」
東北の山奥の集落で大量虐殺事件が発生する。生き残ったのは少女たった一人(薬師丸ひろ子)。偶然に現場に遭遇した自衛官がいた。彼(高倉健)は対テロ特殊部隊の精鋭で、部隊のサバイバル訓練の最中だった。彼はそれを機に除隊し、凄惨な現場を目撃しショックで記憶を無くしてしまった少女を引き取り、保険会社で働きながらひっそりと暮らしていた。しかし、不審な事故死に保険金が請求されたことがきっかけで、二人は東北の地方都市を舞台にした巨大な陰謀に巻き込まれていく…。「お父さん、怖いよ。何か来るよ。大勢でお父さんを殺しに来るよ」というのは、映画のテレビCMの冒頭で薬師丸ひろ子がつぶやくセリフである。
「人間の証明」に続く森村誠一の社会派ミステリー、のはずだった…。なのに、後半、自慢の角刈りを強調したいがため、すぐにキャップを脱いで目を吊り上げてしまう松方弘樹の(かつて高倉健の上司だった)対テロ特殊部隊司令官が登場すると、(通学途中で読んだ)原作から大きく逸脱し、物語は荒唐無稽なドタバタアクションへと変貌する。今日の感覚で観るとこれはこれでかなり笑えて面白い。とにもかくにも、「歌って踊る」アイドルとは一線を画した薬師丸ひろ子のデビューは、当時を騒然とさせたものだった。
図々しくいえば、薬師丸ひろ子は中学ん時からの「同級生」なのだ
NHKの連続テレビ小説を習慣的に観るようになったのは、2013年の宮藤官九郎作「あまちゃん」がきっかけだ。そこに、薬師丸ひろ子は自身を戯画化したような「若いころからずっと活躍する大女優」役で出演している。ただ実際の彼女とは違い、劇中の大女優は「大変な音痴」で、それが周囲の人生をも左右する葛藤の種となる。ドラマ最終盤、東日本大震災に被災した人たちの前で生で歌うことを決意した彼女が、自身の逡巡を振り払って心をこめて声を発したとき、その清涼感あふれる歌心に極限にまで達していた周囲の葛藤は一瞬にして氷解し、そこに居合わせた人たちすべてに癒しがもたらされる。薬師丸ひろ子にしか演じきれない鳥肌が立つようなシーンだった。あのとき、私たちはアラフィフで50歳手前だった。考えてみれば、そのときだって35年、ファンとはいえないけれど大女優 薬師丸ひろ子をずっと見守ってきたのだ。デビュー当時、北青山出身の彼女は、港区立青山中学(略して青中、私立青山学院ではない)の2年生だった。私は青中に年がら年中サッカーの試合に出向く同じ区内の中学2年生サッカー部員だった。
「カ・イ・カ・ン・・・」
中学サッカー港区地区公式大会の会場となる青中で私たちが試合をしたとき、今までになく先輩たちがたくさん応援にきたものだ。もちろん応援は二の次で、「あわよくば薬師丸ひろ子に会えるのではないか」という浅はかな魂胆に裏打ちされての行動だ。グラウンド全体を見渡すふりしてキョロキョロしていたものの、当然のこと誰も見つけることはできなかった。一度だけニアミスしたことがある。1981年6月、私たちが高校2年で北海道に修学旅行に出かけたその帰りのことだった。現在の新千歳空港ではなく、まだ軍民共用の千歳空港で発着した時代のことだ。私たちと同じ便のファーストクラスに、これまたよくサッカーの試合をしていた都立高校に普段は通っている薬師丸ひろ子が、物静かに座っていたのだ。学校がない日を利用して、その時に公開されていた大林宣彦監督「ねらわれた学園」のプロモーションのため札幌に来ていたようだ。エコノミーに押し込まれている男子校生徒たちは落ち着きをなくす。だからといってどうにかなるわけでもなく、結局ニアミスはあたりまえにニアミスのまま終わった。
「勇気と希望」の源泉
同じ歳の芸能人や有名人が他にいないわけじゃない。しかし薬師丸ひろ子は特別だ。まず私たちが中2病まっただ中の14歳のときに現れ、その後も「消費」されることなく、無理しているようにも見えず、年齢を重ねながら相応の役を常に中心で演じ続けている。ファンというほどに大袈裟なものではないが、彼女を見かけると勝手に「同級生」として「ああ、がんばっているなあ」としみじみ「勇気と希望」のようなものが湧く。ガースー総理や丸川珠代五輪相は「東京オリンピックによって『勇気と希望』がもたらされる」と主張されるが、私の場合は間に合っているから心配には及ばない。ああ、もうすぐ隠居の身。1964年生まれの私たちは、薬師丸ひろ子とともに人生を歩んでいるのだ。