隠居たるもの、五感を研ぎ澄ましてすり抜ける。2023年12月26日の午前10時半頃、八方尾根スキー場の中腹、標高1,400mのうさぎ平テラス、しかもトイレでのことだった。スキー場で遊んだことのある方はご存じだろう、レストハウスのトイレの入り口というのはとりわけ注意が必要な難所だ。なのに彼は漫然としたまま敷居をまたいだ。右足のかかと、その一点に力が集中して白いスキーブーツは勢いよく滑り、「あっ」という声を上げて小太りの大きな身体が宙に浮く。そしてストップモーションのようにゆっくりと落下し、床にしたたか尻と背中を打ちつける。それを見ていた誰もが息をのんだ。幸いなこと大事には至らなかったようで、そそくさと立ち上がった彼は、小さいけれど居合わせた人にはしっかり聞こえる声で、どういうわけか「サノバ ●ッチ!」と悪態をついた。

「Son of a bitch」と言われましても

雪にまみれるレジャーであるから、ゲレンデのレストハウスの床というのはおおむねカーペットなどが張ってあり滑りにくいよう配慮されている。しかしトイレまでがそうというわけにもいかない。簡便に掃除できるからだろう、ゴムなど撥水力の高い材質であることが多い。そこに常に雪が持ち込まれ、溶けて、結果としてうっすら水のはった滑りやすい状態が安定して保たれる。「滑りにくい床」から「滑りやすい床」へと細い金属の敷居を境にあっさりと変わる、このトイレの入り口がスキー場にひそむ最も危険な場所、そう言っても過言ではない。予期せずズルっとして股関節を痛めかけた、そんな「ひやっ」とする経験を持つ方も多いだろう。見落としがちな警告掲示に従い、「敷居」をまたぐときは小股で細心の注意を払わなければいけないのである。なのに彼は注意を怠った。

というか、スキー場の掟に精通していないのだと思われる。シルバーのヘルメットをかぶり、銀縁のメガネと伸ばしっぱなしにした薄くてまばらな長い髭。なかなかお目にかかれない見事なすってんころりんだった。よほど照れくさかったには違いないが、「サノバ ●ッチ」という悪態を選ぶセンスもなかなかどうして捨ておけない。そもそも「Son of a bitch」は直訳すると「雌犬の息子」、男性を侮蔑的に罵るときに使われる汚い言葉だ。自分で勝手に宙に浮いたのだから、本来からすれば罵る相手もいなければ「bitch」にだって失礼だ。ここはプロレスラーの蝶野正洋ばりに「ガッデム!(goddamn)」あたりをチョイスするのが穏当であったに違いない。まあ慣れない国に来て、慣れないレジャーに勤しみ、思わず使い慣れない言葉が口から出たのだろう。「新型コロナ禍」が明けた2023年12月の平日、白馬のスキー場から最も聞こえてくる言語は中国語だ。彼もおそらくチャイニーズ、私はそうお見受けした。

白馬の今般ゲレンデ事情

11月後半から降り出し幸先よかったにもかかわらず、その後の異常な高温で雪が解けすっかり困っていた白馬のスキー場、先週後半に深々と降った雪のおかげで徐々になんとか息を吹き返した。私たち夫婦も23日にシーズンイン、これまでに五竜&47スキー場に2度、栂池高原スキー場に1度、そして八方尾根スキー場にもこの1度、4日ほどゲレンデに足を運んでいる。この冬は中国本土からの来日も解禁されており、平日のスキー場来客者割合は、チャイニーズ(中国本土もしくは香港、それとも台湾かシンガポール、その内訳について私は判別できないが)50%、オーストラリアから35%、日本から13%、その他2%、あくまで私の体感だがそんな感じだ。もはや主要顧客がインバウンドさんである以上、それに合わせてスキー場の様子もあちこち変わる。それがもっとも顕著に現れるのがレストランなのかもしれない。

栂池高原スキー場の頂上付近に、私たち夫婦が好むJACKY’S kitchenというレストランがあった。ルーツレゲエがかかっていてカレーが美味しく、栂池に出向くときの楽しみでもあった。それなのに、この冬にテナント契約の更新を迎えたのだろう、スタッフも外国の方ばかりをそろえたインバウンドさん向けの「丼もの」レストランに代わっていた。残念なこと、私の口には合わなかった。他にも例えば上に写真を掲載した八方尾根スキー場にあるカフェテリア黒菱、以前はラーメンを供する店であったが、今はBEARS CAFEという、おそらくオージーが経営する店になっている。店員はほぼ全員がオージーで日本語はたどたどしい。近場に遊びに行くだけだというのに、あらためて英語を勉強し直さないとこれからはどうにも心もとない。

そして以前からの店も含めどこもかしこも大幅に値段が上がっている。簡単なメニューでも1,600円くらい、ちょっとしたものなら2,000円超。そもそも白馬に来るチャイニーズは富裕層だし、物価の高いところからやってくるオージーだって円安を存分に享受できる。それにひきかえ日本で暮らす私たちは、とりたてて美味しいわけでもない料理に日々この料金を支払うことになんというか納得がいかない。BEARS CAFEで隣に陣取られた70歳そこそことお見受けしたご夫婦も、私たち同様とてもつつましい注文でお茶を濁しておられた。山を下りたところにある店、もしくは帰って散種荘、そんなところで昼食を取るよう心がけよう。それにシーズン券をなんとかして買うから気づかないでいたのだが、今や白馬の主要スキー場のリフト1日券は7,000円を超える。「給料も上がりゃあしないのに、子どもふたりを連れて家族でスノーボードなんかそうそうできませんよ!」、先月に後輩のスノーボーダーが苦々しい顔でそうぼやいていたっけ、そりゃあそうだ。少し心持ちが暗くなる。

ショーンが語る「オーバーツーリズム」

夕食に白馬ピザでデリバリーを頼んだ翌日の昼下がり、散種荘の近くでガールフレンドと暮らすオーナーシェフのショーンが、その日本人の彼女を伴って世間話をしに遊びに来た。トップシーズンは無休で1日に160枚くらいピザを焼くという。小さな店はとにかくてんやわんや、だからその反動で夏には働きたくないのだそうだ。「サーファーだしね、あっちこっち波乗りに行きたいのね」と屈託がない。先日に蕎麦膳で昼食をすすっていたところ、夜の予約問い合わせの電話を断っている様子が聞こえてくる。「どれくらい先まで埋まっているのか」と尋ねると、1月半ば過ぎまで満席だという。この滞在中にとあてにしていた馴染みの一成に慌てて確認してみると、やはり年内はすでに予約でいっぱいだという。それでショーンにすがったわけだが、ここ白馬でオーバーツーリズムはすでに起きつつあるし、このシーズン中のどこかで洒落にならなくなる場面もあるだろう。2024年の中国の春節(旧正月休み)は2月10日から17日だ。出だしで日本の3連休もぴったりと重なる。漫然としていたらうっかり飲み込まれる。ああ、もうすぐ隠居の身。五感を研ぎ澄ましてうまくすり抜けるのだ。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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